分類されるリバタリアニズム

*本記事は「リバタリアン協会(LS)」のnoteにて[2021年7月3日 18:11]に公開されたものです。従って団体名や団体構成が当時のままであり、内容が正確ではない可能性があります。また代理投稿ですので、筆者は別人です。

「分類されるリバタリアニズム」(https://note.com/ls_jpn/n/nee17e0cf700a)より。

今回は、日本リバタリアン党の某サポート党員が書いた記事をみなさんに共有します!

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目次

  1. はじめに
  2. 一 如何なる政府を正当と見做すか
  3. 二 自由を至上とする根拠は何か
  4. おわりに

はじめに

 「リバタリアニズム」と一口に云っても、それには様々な種類が存在する。リバタリアニズムはある程度の基本的な理念や方針を同じくしていても、その理論的基礎は極めて多様である。
 本稿では、その様なリバタリアニズムが、如何にして様々な種類に分類されるのかを見ていきたい。

一 如何なる政府を正当と見做すか

 リバタリアニズムは、一般的に二つの論点により分類することが出来る。一つは「如何なる政府を正当と見做すか」というものである。
 この論点について、最も過激な立場が「無政府資本主義(アナルコキャピタリズム)」或いは「市場無政府主義」であり、政府の廃止を主張し、その存在を否定する。道路や公園の様な公共財はおろか、軍隊や警察、裁判所等全てのサービスの民営化を求める。マレー・ロスバードやデイヴィッド・フリードマン等がこの立場である。又、ライサンダー・スプーナーやベンジャミン・タッカー等十九世紀米国の個人主義的無政府主義者の影響も認められるだろう。
 もう少し穏健な立場としては「最小国家主義(ミナキズム)」があり、政府の必要性を認めながらも、その役割を国防、司法、治安、その他の公共財の供給、或いはその一部のみに限定しようとする夜警国家論である。ロバート・ノージックにより体系化された主義であり、アイン・ランドやランディ・バーネット等もこの立場に位置付けられるだろう。
 最も中道に近いのが「古典的自由主義」であり、夜警国家の機能に加えて、政府がある程度のサービスも提供することを許容する。所謂小さな政府論であり、前二者よりも政府の役割に肯定的であるが、それでも古典的自由主義の擁護する政府は、今日に於ける大部分のそれよりも遥かに控えめな活動しかしない。ジョン・ロックやアダム・スミス等に淵源し、二十世紀に入ってフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマン等によって体系化された。
 無政府資本主義や最小国家主義を「ハードリバタリアニズム」、古典的自由主義を「ソフトリバタリアニズム」とする分け方もあるが、無政府資本主義からすれば、軍隊や警察を認める最小国家主義と古典的自由主義との違いはなきに等しい。
 又、そもそも国家と非国家との間の境界、最小国家とそれ以上の国家との間の境界は、必ずしも明確ではないであろう。古典派自由主義の許容する「ある程度のサービス」の内容も、論者や時と場合とによって大きく変わる。

二 自由を至上とする根拠は何か


 リバタリアニズムを分類するもう一つの論点は、「自由を至上とする根拠は何か」である。これによりリバタリアニズムは、自然権論帰結主義契約論の三つに別れる。
 自然権論は自由を時代や地域、属性等を問わず、全ての人に等しく与えられる普遍的な権理として捉える。ジョン・ロックやトーマス・ジェファーソン、ロバート・ノージック等が主要な論者である。
 帰結主義は観念論的な自然権論とは異なり、自由を尊重することこそ、人々の幸福の総和を最大化させる途であるとする。論者はアダム・スミスやオーストリア学派のルートヴィヒ・ミーゼスとフリードリヒ・ハイエク、シカゴ学派のミルトン・フリードマン等経済学者に多く見られる。
 契約論は理性的な人々の間では、リバタリアニズムが選択されるはずであると考える。論者はジェイムズ・ブキャナンに代表される他、ジャン・ナーヴソン等の立場もこれに当てはまるだろう。
 しかし、これ等の諸論が必ずしも矛盾するわけではない。実際複数の論を用いるリバタリアンも存在する。例えば自然権論者は薬物規制への反対を唱える際に、「薬物の所持や使用も人としての権理である」という自然権論のみならず、「犯罪集団の資金源を絶つことが出来る」という帰結主義も同時に用いるだろう。
 又、笠井潔や私の様に、自然権論、帰結主義、契約論の何にも該当しない論を以ってして、自由を正当化するリバタリアンもいる。

おわりに

 私は本稿でリバタリアンが如何に分類されるかを解説したが、先の論じた様にこの分類は必ずしも完璧なものではない。しかし、その限界を承知していれば、大まかな分類の為に十分役立つであろう(尚、右派リバタリアニズムと左派リバタリアニズムに分ける等といった本稿では言及しなかった分類もある。)。
 本稿を読むことで読者の皆様が、非リバタリアンであればリバタリアニズムに対する理解を深めていただき、リバタリアンであれば自らの理論を再考するきっかけとしていただければ、筆者として幸いである。
 最後に私の立場を明らかにして本稿を締め括ろうと思う。私は「如何なる政府を正当と見做すか」については古典的自由主義、「自由を至上とする根拠は何か」については前述の通り分類不能の立場に在る。詳しくは今後、リバタリアン党のnoteや私個人のnoteで述べていくつもりなので、そちらの方も是非読んでいただくことを希望するものである。