「#ママ戦争止めてくるわ」に見る「リバタリアン的リベラル」

 「#ママ戦争止めてくるわ」というハッシュタグがあるらしい。エッセイストの清繭子さんによる2月5日のポストがもとになって拡散されたハッシュタグである。これが衆院選を意識したものであることは、時期的にも文脈的にも明らかであろう。当然、これを拡散した人々としては、「高市政権が選挙で信任を得てしまうと戦争に巻き込まれるかもしれないから、リベラル勢力に投票してそれを阻止しよう」という意識があるはずである(誰もここまではっきり言わないが)。いわばリベラル系市民の選挙戦略の一環として、戦争の危機を訴える趣旨のハッシュタグが拡散されたわけである。

 一方で、これをよく思わないリベラリストもいるようだ。たとえば、左派的であると自称するアカウントによる「自民支持者とて戦争をしたいわけではないのに、リベラルが『高市自民が勝てば戦争になるぞ』などというレッテル貼りのハッシュタグを拡散するのはおかしい。自民とリベラルの意見の違いは戦争をいかに避けるかの手段の違いに過ぎない(要約)」という主張のポストが反響を呼んでいる。このポストの引用では、「韓国の進歩派は防衛産業を重視してるし、防衛費については論争にもならない。日本の防衛費増=軍拡という議論の運びはおかしい。もっと現実を見た議論であるべき(要約)」とする記者の賛同意見や、「このイシューについては、右派と左派でいがみ合うのではなく、より対話的であるべき」との賛同意見も見受けられた。私は「左派協議会」という、600人ほどが所属するDiscordサーバーにいるのだが、安全保障については「現実主義」のリベラルもそれなりに見かけるので、こういった意見に賛同するリベラルはそれなりに多いのではないかと思われる。

 さて、ここでリバタリアニズムの出番である。リバタリアンの考えに基づいて、上述の2つの立場はどちらも間違っている、と私は主張する。とりわけ、後者の主張はかなり破綻していると言いたい。以下、説明しやすいように、前者をリベラリストA、後者をリベラリストBとしよう。また、ここでいう「戦争」とは、便宜的に国家間戦争のことであるとしよう(今、私は日本「国内」の話をしており、日本において内戦などが起こる可能性は低いため)。
 まずリベラリストAから。「戦争を止めたい、そのために現体制を倒さねばならない」という志そのものについては、リベラリストAとリバタリアンである私の間で一致しているといえよう。だが、「なぜ戦争が起こるのか」という点において、両者の間には認識のズレがある。リベラリストA的には、今の日本が戦争に巻き込まれるとすれば、それは右翼的な指導者が対米従属姿勢を取りながら東アジアの緊張を高めていくことによってそうなるのだから、指導者の首をすげ替えれば問題は解決である。だから「ママが選挙に行って戦争を止める」という話になるのだろう。一方、私はこう考える。まず、戦争は国家が行う自己所有権の侵害のひとつである。計画された戦争が国家による論外の自己所有権侵害であることは言うまでもないが、これはリベラリストAの言うように、為政者の首をすげ替えれば何とかなる話である。しかし、国家という観念的な構築物が、各人のコントロールを離れて暴走し、戦争という形で自己所有権を侵害することで各人の生活を踏みにじることもある(ちょうど、マルクス主義の理論において、資本主義社会における社会的な力が各人の手を離れて他律的に君臨し、生身の人間を抑圧するのとよく似ていると思う)。むしろこちらの方が多いだろう。国家が存在する限り、この暴走のリスクは拭えず、かかるリスクにさらされる国家は、防衛費増額(課税)・徴兵・政治的抑圧などの自己所有権侵害を行って戦争に備えようとする。まさに悪循環である。ゆえに、国家を廃絶しないことには、戦争の廃絶と自己所有権の確立はありえないのである。その過程において、今回のように、国家が設定した「選挙」「議会政治」という舞台で戦うのは、あまりにも分が悪い。いわば、デスゲーム主催者をやっつけるために(他の方法があるのにも関わらず)デスゲームに参加するようなものである。つまり、リベラリストAは、戦争と国家をめぐる関係を誤認したせいで、方針を誤ったのである。
 次にリベラリストBである。リベラリストBは、おもに2つの点で破綻している。まず、「みんな戦争を止めたいのは同じなんだから、みんなで話し合おう」という意見が問題である。先程も言及したように、国家廃絶は戦争廃絶の必要条件なのだが、高市自民のような国家主義者が話し合いで国家消滅に合意することはありえない。それは、彼女が強硬な保守派だからではない。どんな国家主義者が相手でも同じである。当然ながら、国家主義者の階級とリバタリアンの階級は決定的な利害対立の関係にあるので、その解消は階級闘争によってなされる他ないのである。もう一つの問題は「保守派は戦争がしたいわけではないのだから、『現実を見て』彼らの安全保障論議に付き合うべき」という意見である。「戦争は誰かが起こそうとして起こるのではなく、ある種の暴走によって起こることが多い」というところまで理解しているのにも関わらず、防衛費増額を中心とする自己所有権侵害に、すなわちすべての元凶である国家の拡張に対して「より融和的に」なれと主張しているのだ。徴兵という大きな自己所有権の侵害を行っている韓国を例に挙げて、である。正直、なぜそうなるのかよく分からない。戦争を止めたいのであれば、どれだけその歩みが遅いとしても、国家の廃絶に向けて動くほうがよほど「現実的」である。国防を強化することによって戦争による被害を最小限に抑えることは、不確実であり、かつ応急処置でしかないし、そのための多大な自己所有権の侵害(防衛費増、徴兵、政治的抑圧)は代償としてあまりに重すぎる。

 最後に、なんでこんな記事を書いたのかということについて記しておきたい。一応、本稿の「想定読者」は、上述のリベラリストAに相当する「自認左派リベラル」である。私は、これまで中道左派くらいのリベラルを自認してきた人たちに、「あなたの居場所はそこじゃない」と言いたい。そのことに気づいてほしい。そのためにこの記事を書いたのである。今回の件も含めて、左派リベラルである「あなた」は何と闘ってきたのだろうか。私には、あなたたちの多くが、国家による自己所有権、とりわけ身体所有権の侵害を苦々しく思っているように感じられる。それでも「国家廃絶は困難で非現実的」「アナキストは破壊的テロリストで、リバタリアンは弱肉強食主義者」という思い込みのもと、何とか国家の存在と折り合いをつけながら最大限の自己所有権を求めてきたのではないだろうか。しかし、今や日本の左派リベラルは、高市政権に「選挙」という国家が設定した舞台で圧倒され、また、本稿で検討したように、同じ「リベラル」であるはずの同志による自己所有権侵害拡大の主張という裏切りに直面している。経済右派的イメージのある「リバタリアン」という言葉に二の足を踏む必要はない。あなたが資本主義の暴走を止めたい、資本主義の代替を追求したいと考えるなら、左派リバタリアニズムやリバタリアン社会主義という選択肢もある。それに、国家主義が強まっていく昨今の情勢を鑑みれば、自己所有権を重んじる人々という意味での「リバタリアン」が左右に割れて対立している場合ではないことは確かである。逆に言えば、自己所有権を重んじるのであれば国家や議会主義と手を切り、リバタリアンとして団結し、国家廃絶へ突き進むべきである。以上のことを踏まえて、私は、改めて「あなた」の方を向いてこう言いたい。「すべてのリバタリアンよ、団結せよ」と。

(Rábano)