革命的リバタリアニズム 

編集者による前書き 

 本稿「革命的リバタリアニズム」は、秋井乃音が自身のnoteにて2025年6月19日に公開した同名記事の転載である。 

https://note.com/archy_none/n/n89b68abd3bc3

 リバタリアン思想と革命という今日ではあまり見られなくなった組み合わせの考えは、今後のリバタリアン思想の発展に多いに花を咲かせるだろう。 

 余談ながら、1960年代のロスバードは新左翼と結託し、一部では「左派ロスバード主義 left-Rothbardian 」という政治的主張を持つ者も生まれた。この思想は、ロスバードの考え(主に自己所有権論)を最大限左派として適用する考えであった。 

 以上のことから、本稿は荒唐無稽の考えではなく、リバタリアンの歴史に沿った書き物と言えるだろう。 

(編集:前川範行) 

(以下、本文)

 革命的リバタリアニズム(革命的自由至上主義, Revolutionary Libertarianism)とは、個人の自由――自己所有権のみを唯一至上の原則として徹底的に追求した挙句、国家はもちろん既存のリバタリアンが肯定してきた資本主義や契約社会も否定するという、超過激な革命思想である。 

ということで、最小国家論者(ミナーキスト)や無政府資本主義者も多い現代のリバタリアニズムにおいて、ロスバード以上に急進的で極左的な「革命的リバタリアニズム」を提唱したい。 

自己所有権の徹底 

 内容としては、ロスバードと同じく自己所有権を是とするが、それを財産周りの例外的な規定(例えば、財産の移転を伴う契約は拘束力を持つなど)を取り除いて徹底的に純化させ、「自己の自己による所有」として明快に解釈する。すなわち、自分の精神や身体そして人生は、他の誰のでも無い、完全に自分だけの物であり、自分の行動は自分だけしか決定できない――自己の唯一の主権者は自分であるということだ。 

 そうすると、やはり自由の対極にある強制はもちろん絶対悪であり、それが「正当」とされることは決してあり得ない。ここでロールズの「無知のヴェール」を被れば、あなたも強制される立場になる可能性がある。あなたも強制されるのは嫌だと思うだろう?よってその主張は容易に理解できる。 

 ここで詳しい「強制」の概念の定義について論じておこう。簡単に言えば強制とは意志の否定である。意志を否定して良いのはその意志が他者に強制しようとする時のみであり、基本的に全ての意志は尊重せねばならない。物理的な脅迫はもちろんであるが、力関係や遠慮など見えない社会的条件や同調圧力によって「渋々従う」のも形式的な合意ではなく、真に本人の自由意志から自発的に同意している訳ではない――意志を否定しているため、広義の強制に含まれる。従来のリバタリアニズムは強制を狭義に捉えるが、それでは構造的な強制を見逃すことになってしまう。それこそが既存の潮流と革命的リバタリアニズムの強制の概念の解釈の差異である。 

 挙げ出したらキリがないが、国家の警察機動隊や国税庁, 暴力団, 資本主義, 家父長制といった、強制を働く如何なる権力構造は断固として徹底的に打倒廃絶しなければならない。 

 特に刑法は多くの条項が誰の権利も侵害しない「被害者なき犯罪」という国家介入で、刑罰は国家から私人への恐怖による抑圧的支配であり、断じて許すことはできない。強制力の行使が許されるのは強制に対抗する正当防衛のみであって、司法の役割は侵害された権利の回復を目的とした賠償と、関係を修復する和解に徹するべきだ。 

 かといって、革命的リバタリアニズムは積極的自由を指向するわけではない。リバタリアンの伝統と同じく消極的自由が基盤である。理性に関しては、特段重視してないどころか、カント的な「理性による自己統治」などは、人間が理性的であることを強いると、子供など理性的で無いとされる人間を排除する危険があり、むしろ批判的だ。理性が吹っ飛んで衝動の赴くままに破天荒に行動する自由もまた自由である。 

 子供の権利についてだが、それは大人と同等に強力に擁護される。理性や判断能力は前述の通り自由の条件ではなく、成人制度や「青少年保護」は全くけしからん介入主義であり不当である。そう、子供とは「小さな人間」である以上の意味を持たず、自己所有者であることには変わりないのだ。子供が何か意思を表明すれば、必ずその意思を尊重し妨げてはならない。 子供が幼すぎて意思を表明できない場合は、大人は自身と子供の関係の経験に基づき最善の利益を考えて意思を代弁することができるが、その代弁行為を子供本人が嫌がったら即ち強制となるので、即座に中止しなければならない。 

その根拠 

 これらの根本的な原則に関する議論は、倫理的直感によって導かれる。これは、幾何学において「任意の2点を通る直線は1本だけ引ける」という公理が疑う余地なく直感的に受け入れられるのと同様に、リバタリアニズムにおいても「自分は自分の物」という自己所有の原則は、人間本性に普遍的に合致する倫理的公理なのである。もし自由の否定を主張すれば、「自由の否定を主張する自由」も否定され、その主張は意味を持たなくなり自己矛盾に陥ってしまう。よって自己所有権の正当性は自明である。 

 だから立場ごとに「自由」の定義や解釈, 重要度に差はあるが、自由を真っ向から全否定する立場はそうそう無い。しかし他の思想では自由だけではなく平等や友愛, 秩序, 公平など他の価値と折衷することがしばしばだが、我々の議論の価値基準はあくまで自己所有権に依拠しているか否かであって、それ以外は一切考慮されない。やはり、革命的リバタリアンは我らこそが自由を最も強力に擁護する最左翼だと自認する。 

アナーキズムとの接点 

 自己所有を出発点としてそれを徹底させた結果、個人主義アナーキズムに近い主張になる。財産に関しても、ロック的な労働混入説を基盤としながらも、プルードンの「財産とは窃盗である」という思想に共鳴する。 

 具体的には、労働者が生産手段を所有せず、資本家に管理され命令される賃労働や、財産権を保持したまま使用権だけ渡し、オーナーが借主に強制せしめられる賃貸など、資本主義社会における財産の非相互的関係によって生じる権力構造を糾弾する。なぜなら、最初に合意して関係性が成立した後も、いつでも所有者が力関係に乗じて利用者に一方的に条件を要求し、利用者は使い続けるために渋々従わざるを得なくなる――強制することができるからだ。 

 この資本主義批判は、従来の社会主義的・左派的な「格差が広がるから悪い」というものではなく、「強制できる構造だから悪い」という自由主義的な視点から提起されるものだ。自由の延長線上にある財産が、自由を制約しては本末転倒なのだ。権力を発生させず相互的な関係性である為に、合意に基づく行為は使用する財産を共有すべきである。 

財産とその共有 

 他者との共有関係についても整理しておこう。ものを見せたり、貸したり、預けたり、試させたり、使ってもらったり、一緒に遊んだりといった、自分の財産を移転することなく他者に関与させる合意の上の行為は全て「共有」であり、従来の財産権論における所有者と利用者の区分は不当である。 

 共有されていない時は各人は財産に対して排他的権利を有しており、他者は勝手に占有してはならないが、例えば私の財産を共有することにあなたが私と合意した時、あなたは私の財産の共同所有者に招き入れられる。いわゆる「管理者」による専制的な支配は廃され、財産に関わる人全員が対等な立場で運営する権利を持つ。共有を終了する時、事前の合意に基づいて成果が分配されるが、対立するなどして決まらなかった場合は、共有する前の元の状態に戻す。 

 また、資本を正当に取得した資本家の存在は否定しないが、資本家は生産手段を独占したまま労働者を「雇う」という形態を取るのでは無くて、労働者と生産手段を共有するべきだ。双方の合意に基づけば、資本家は経営や投資のリスクの分、余剰価値を頂戴することもできるだろう。しかし、対立した場合は、生産手段が元々資本家の物であっても、労働混入説に則り、既に労働者が生産した物は労働者の物なので、労働者は自身の成果物を持って生産手段から離脱することができる。 

自由への信仰 

 革命的リバタリアンは自らの思想を「合理的」とか「科学的」とは決して思わない。何故ならそれはドグマ(教条主義)であって、旧左翼のように理論がドグマに陥ることは、自由を至上とする者にとってトンデモない自己矛盾と映るからだ。20世紀の社会主義運動の失敗をわざわざ再現する必要はない。 

 お堅いマルクス主義者のように唯物論的な科学主義に立脚するわけでは無く、むしろ、自己所有権は倫理的公理によるものであって科学的事実に基づくわけではないし、リバタリアンの思想も自由そのものを信仰対象とする点である種の宗教性(スピリチュアリティ)があるとも言えなくもない。 

 しかしその宗教性は、外部の超越的な存在への従順な服従を求める外発的で権威主義的な既存のいわゆる「宗教」とは決定的に異なる。「自由への信仰」は普遍的な自己所有権への絶対的な擁護を基軸とする信仰であり、それは主体的に自己を肯定する極めて内発的な態度であるからだ。それ故1960年代のヒッピー文化的なスピリチュアリティとかなり親和性が高いと言える。 

脱・形式主義 

 ロスバードが『自由の倫理学』で、ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で述べたような、抽象的・形式的で冷徹な議論は、思想的な意義は高いが、自由を語るにしてはやはりどこか堅苦しい感じがする。革命思想はもっと自由で軽快で、楽しいものであるべきだ。 

 バクーニンの言葉「破壊への情熱は創造への情熱である」みたいなエネルギッシュな高揚感や、第二波フェミニズムの言葉「個人的なことは政治的なこと」に表現される個人的な経験や感情を重視する。そしてその情熱――自分自身の内面から湧き上がる自由への希求を原動力とする、軽やかで開かれた行動――革命の実践を指向する。それこそが、この思想が「革命的」たり得る所以である。 

 ではそれは具体的にはどのような情熱なのか?ネットサーフィンをしていたら、ボリシェヴィキの独裁に堕す以前のソヴィエトの熱狂について好例として良い記事が見つかったので引用する。 

 このかんのペトログラードの状態がなかなかわからないのですが、E・H・カーがまとめていますので紹介します。「二重権力の実態は権力の完全な拡散である。労働者農民の気分というのは恐るべき悪夢からの巨大な解放感、自分自身のことを自分たちの流儀で勝手にやりたいという根深い願望。これが実行可能であり本質的なことなのだという確信。熱狂の波。人類の解放というユートピア的ビジョン。」とにかくお祭り騒ぎ、みんなが熱狂して盛り上がって大騒ぎしているイメージですね・池田さんは「バケツの底が抜けた状態」と書いています。なんでもありという無政府状態的な感じなのかなというイメージです。この時にペトログラードに取材に行ったアメリカの新聞記者でジョン・リードという人がいます。『世界を揺るがした10日間』という本を書いています。それを読んでいると、なんかめちゃくちゃですね。いろんな会議のルポをしているんですけども、みんな好きなようやっている。ただ革命だという意識をみんなが持っているので、それなりに高い倫理観がある。ホテルの給仕も組合を作って、彼らはチップを受け取らなくなる。我々にも労働者として誇りがある。お恵みはいりません、と。チップの受け取りを拒否していることが書いてありました。 

世界史アプローチ研究会 
『名著で読む世界史120』(山川出版社)読書会  2020年7月17日 
レーニン『国家と革命』 
https://timeway.vivian.jp/aproach48.html

運動論 

 情熱は運動を活発にするが、それが肝心の自己所有の原則から逸脱しては断じてならない。革命が本当に「自己所有しているか?」と原則を常に問う、絶え間ないフィードバックと試行錯誤を徹底することによって、ボリシェヴィキのような革命の堕落や後退を防ぎ、確実にリバタリアン社会へと前進させることが可能となる。 

 具体的な革命の実践としては、街宣やデモ, 暴動といった直接行動はもちろん、アゴリズムなどの対抗経済、フリースクールや無料食堂などのオルナタティブな共同体作りといったものを私は想定しているが、やはりそれはドグマ化しないよう明確に規定するのは避け、実践者各人の発想に委ねられよう。そう、革命的リバタリアニズムの可能性はその実践者の数に比例して無限に開かれているのだ。 

世界革命へと進撃せよ! 

 議会主義に堕ちた合衆国のLibertarian Partyを筆頭に、世界の多くのリバタリアンの主流派は余りにも緩過ぎる。血も涙も有る(Bleeding Heart)リバタリアニズムや、保守と結託したパレオリバタリアニズム(ロスバード晩年, ホッペ, ミレイなど)といった、右傾化や穏健化を強める動向は、革命的リバタリアンにとっては知的劣化――後退でしかない。 

 そのような穏健で柔軟な立場を取っていては、ますます増長する権威主義に打ち負かされてしまうだろう。むしろ、既存の国家秩序に甘んじず、我々の方から奴らを打倒しなきゃいけない。リバタリアンは今や、若い世代に流行ってるだとか、保守やリベラルとも違う第三党だとか、そのような既存の政治スペクトルの中に甘んじることはない。 

 その思想の普遍性ゆえ、もはや全人類の解放――世界革命を志すべきである。リバタリアン革命において、全人類は抑圧以外に失うものは何もない。全ての個人が勝ち取るべきは、完全な自己所有権である。 

 万国のリバタリアンよ、革命的であれ! 

(秋井乃音)