人類学アナキズムの視点から分析する沖縄基地反対運動——帝国主義的辺境化を超える「生命の闘争」を目指して 

1.はじめに 

 沖縄における米軍基地反対運動は、長きにわたり国家と軍事権力に抗い続けてきた。しかしその闘いは、時に疲弊し、時に分断を強いられ、多くの困難と限界に直面している。本稿は、この運動を人類学アナキズムの視点から捉え直し、思想家・活動家である比嘉理麻氏が提唱する『命のアナキズム』を手がかりに、その限界を乗り越える道を模索する試みである。特に、沖縄が置かれてきた歴史的文脈を「辺境」として捉え直し、運動の普遍的可能性を探る。 

2.基地反対運動の困難と限界性 

2.1. 運動が直面する困難の歴史的構造 

 本稿は、沖縄の闘争に実地で参加した経験を持たない筆者が、比嘉理麻氏の講演等を基に構成したものである。そのため、分析が観念的になる危険性を自覚しつつ、運動が抱える困難の構造を分析したい。 

 基地反対運動の困難は、主に三点に集約される。第一に沖縄県の政治的立場の弱さ、第二に基地との利害関係から生じる県内世論の深刻な分断、そして第三に、本土との隔絶である。 

 この「本土との隔絶」は、単なる地理的・文化的な距離に起因するものではない。それは、歴史的に構築された「周縁化の技法」と言うべきものである。日帝は沖縄と台湾を「南のフロンティア」と位置づけ、軍事的・経済的支配を正当化するために両者を「辺境」として構築した。本土から向けられる植民地主義的な眼差しは、沖縄を支配の実験場としてきた帝国の歴史に深く根差している。この構造が、運動を孤立させ、困難な状況に追い込んでいるのだ。 

2.2. 既存の運動が抱える限界――「人間中心の闘争」という枠組み 

 これまでの運動が様々な成果を上げてきた一方で、近年の行き詰まりは、従来の手法が限界に直面していることを示唆している。本稿ではこの限界を、近代国家の枠内で闘ってしまう「人間中心の闘争」という概念で捉える。 

 これは、国家主権、国民経済、そしてそれらを支える組織的ヒエラルキーといった近代社会の構造を無意識に内面化し、そのルールの中で権利獲得を目指す闘争を指す。例えば、運動が「リーダー」を立てて政府と交渉したり、司法の場で国家が定めた法的前提の下で争ったりする手法は、結果的に国家というシステムを補強し、自ら限界の壁を築く側面を持つ。この人間中心の闘争が、運動内部の階層化や利害に基づく分断を生み、人々を消耗させている間に、ジュゴンや蝶といった人間以外の多くの生命が脅かされ続けている。 

3.「人間中心の闘争」を超克するために 

3.1. もう一つの選択肢としての「命のアナキズム」 

 「人間中心の闘争」が行き詰まりを見せる中、比嘉理麻氏が提唱する『命のアナキズム』は、全く異なる選択肢を提示する。あらゆる生命が支配されない社会を目指すこの思想は、個々人の自発的な行動を基盤とし、人間の利害に還元されない生命の尊厳を目的とする。 

 特に注目すべきは、「地理的な隔絶を、歴史や記憶の共有によって乗り越えようと試みる」点である。これは、帝国によって分断された「辺境」を、生命の連帯によって再接続する試みと捉えられる。かつて交易や文化で結ばれていた沖縄―台湾間の民衆的・生態的なネットワークを、人間だけでなくジュゴンや海洋生態系をも含めて再生させようとするこの思想は、帝国が引いた国境線を越える「生命的連帯」の可能性を秘めている。 

3.2. 「命のアナキズム」から、普遍的な「生命の闘争」へ 

 『命のアナキズム』は画期的な思想だが、その個人単位の実践は、国家による弾圧に対して脆弱であるという課題も抱える。また、既存の運動が培ってきた経験やネットワークを一方的に否定するのではなく、その中にある水平的・生態的な実践(例えば共同売店の運営や地域の祭祀の維持など)と接続する視点が建設的であろう。 

 そこで本稿は、「人間中心の闘争」と「命のアナキズム」の対立を超克する新たな地平として「生命の闘争」を提唱したい。これは、『命のアナキズム』の理念を運動全体の思想的支柱へと高め、従来の人間中心的な枠組みから脱却する試みである。既存の運動の経験を活かしつつ、沖縄から台湾、そしてアジア太平洋へと広がる、あらゆる生命との全方位的連帯を目指す闘争である。 

4.おわりに 

 本稿で提起した「生命の闘争」は、沖縄の事例に限定されるものではない。それは、近代帝国主義が世界中に作り出してきた「辺境」において、分断され、搾取されてきたあらゆる生命が連帯するための普遍的な思想的枠組みとなりうる。この視点は、私たちの足元にある活動や生活そのものを見つめ直し、意識を革新する力を持つと信じる。 

 最後に、レイチェル・カーソンの言葉を引用し、本稿を締めくくりたい。 

――感動がないところに行動はない。 

(柏葉うたす)