編集より
本稿は、アナーキズム研究会が1967年に発刊した『アナーキ』Vol.1 No.1所収の論文(邦訳)です。原本は1967年3月25日に発刊されたイギリスのアナーキスト系雑誌『フリーダム』に掲載されました。訳者は不明です。
『アナーキ』に掲載されたオリジナリティを尊重して、当時のままに掲載しています。そのため、歴史的仮名遣いや誤字・脱字があります。現代語訳版は弊協会より復刻版が出版されていますので、そちらをお買い求めください。
以下、本文。
警官が隊列を強化し,2列になって眼前の崩れた波のように,渦巻くデモの民衆にむかって,進んで来る.デモの民衆の頭上には黒と赤の1本の旗がかかげられ,待機する警官隊へ向って進む度にその旗の前後に謂集する.国内の新聞はアナーキスト達がホワイトホールへむかって力づくで行進したと報道する.
家族が離散し,夫は家のない者の為の地方政府センターに隔離される妻や子供達と別れ別れになるのを拒絶して刑務所へ送られる.
ペギーダフがトラファルか広場でモーゼのように起立して,CNDの群集がなだれこむのを監視していて,上級警察官に追いつめられている小さいアナーキストの仲間を押しとどめる最良の方法は何かと訊ねる.上級警察官は彼女や公開演説方式は,年々この禁止令の中で反示威行進する人々に対し,彼等が招待した政治家に沿って話すよう許可を求めるなら,保護するだろうと語る.
スコットランドの青年がスペインのアナーキストグループへ爆発物を輸送していたという証拠のない犯罪で,スペインの刑務所へ入れられたことにつきアッピールされる.アナーキズムの名において,男達と女達は助けの必要な者,病める者に時間と健康を捧げる.コレッドではチァーリングクロス街で,婦人がコンミニストの文献にまじってアナーキスト新聞の1束を販売する.
いつでも抗議の示威行進には黒と赤の旗が現われる.いつでもアナーキストは声を大にして,ある官僚の悪行を攻撃する.いつでもペギーダフはCNDの指導者として巨大な十字架の頭上に痛罵を浴びせる.いつでもスペイン刑務所に拘留されたスコットランドの青年の小さい小さいニュースを読む.いつでも社会正義の手段を与えるように働く男達と女達は,会話や法廷でそれを指摘する機会が作られる.いつでも空いた手はアナーキストの新聞Freedomをまさぐり,質問は唱和され,「誰がアナーキストであるか?」と訊ねる.
誰でもまたはどんな人々でも警察との口論を好み,許可された抗議の指導者を窮地に追いこむ.多くの政治的詭辯家は任期の短い官僚が施行した地方の言明に抵抗するのが有益だということを知っている.若者が遠い国に爆発物を運んだといって告訴されるが,さような行動はアメリカの空軍兵士についてもいえることである.少数者の新聞は古い印刷機械と厖大な負債にもかかわらず,継続される.だが大勢の競馬の予想屋でも同じこを言うだろう.黒と赤の旗じるしの下で,こうした種々の活動をアナーキズムの名において何故われわれは行うのだろうか?
それはわれわれが自分達の生涯のうちに,権威の恐れや政府の暴力や食べることと住むことのために労働する権利のために日常戦うような社会でなく,各自およびすべての人間活働を時がくれば包含する任意の連合による調和のある社会の建設に礎石を置こうと心懸けるからである.われわれはぼろをまとった未来の軍隊,髪を生したジャズメン,落着いた書記,大工,バスの車掌,裁縫師,本屋の店員ではあっても,人間は恐怖の生物や経済的鞭に追われて定められた日常生活を営む者ではなく,また国家はその目的に向っていつでも個人をねじむけたり,破滅させるものであることを知った上で,われわれの最高の幸福はわれわれ自身と共通の善のために結合した自由な個人の社会にあることを基本的な信念として連合しているのである.
2,000年の昔,アリステイッパスがソクラテスの質問に答えて自分は治めることも治められることも望まないと言った.この20世紀の冷酷で効率を求める世界にあって,われわれはこれをエピキュリアンのマンネリズムの疲れ切った一幕として切り捨てよう.切捨てることができないのはヴァレリータルシス(Valeriy Tarsis)がソビエットの精神病院内の政治監獄からの叫び声である.
「今日の闘争は歴史の中での何か他のものと差異があるだろうか?平和な共有について語るのは無意味である―危期にあるのは政治制度や権力の平衡方式ではなく,最重要な論点は,人間が個人として,1人の人間として,存在するかしないかの問題である.人間の自由は地上で抗いがたい善である.コンミニストは別なものを提案した.人間でなく集団であり,個人でなく群れである.だがあなたは人類が無言で無心の群れであることにいつまでも同意すると考えるのですか?必ずそれは間もなく破壊されるのだ」
タルシスの楽観論にかかわらず.この論争はさように単純ではなく,時間と技術者は人間の精神を閉じこめる新しい独房と新しい壁を毎日建造しているのだ.ゼノンがギリシアの熱い日射しの下に坐って,プラトンのユートピア国家の答えとして,政府の鎖や権力を専制的に使用することのない自由社会につき,自分の思想を余暇に議論してい時代は学者を満足させたに過ぎなかった.しかし,理性のある男女が自分達とより大きい善のため共に働く自由意志の社会についてのゼノンの論議は日毎,年毎われわれにとって必要性がせまっているのだ.というのは個人的自由の領域が時間と共に狭ばめられて行くからである.
われわれは数百万の幾十倍で殺された死者を算え,独立した社会の地域的な前線が日刊新聞の題目と共に少さくなり,学校と刑務所が大きくなるにつれて,人間精神は政治評論家の内容豊富な遊び事になる時代に生きているのだ.この時代は国家と独占資本家が最早,争わず,暗い結婚の中で生産と流通手段を所有し,運営する.これらの独占拡大の集中化において,ヴィクトリア朝時代の工場鉱山主のように不道徳な強制を作りあげたのだ.
どこの国でも人々は自分の誇っていた自由が給料の明細書と共に失くなったのを知っている.彼の後から来る者はそれに組込まれるか死ぬしかないのだ.ゆっくりとわれわれは平和共有の時代に入り,そこでは越えて行く開拓者がいなくなる.あなたに可能なのは仕事で可能なことだけだ.そこでは個人的資産やわづかばかりの土地に遁げこむ逃避者もいなくなろう.国家が噴きだした溶岩のように,その本性に従って,前途にあるものを呑みこんでしまう.抗議と不同意は一切を呑み尽す国家の敵になることだ.
かようなことが起きるのは人間が悪いからではない.何故なら,われわれは生まれながらにして,既に形成された社会に在り,ガンを患った血管の悪を受入れ認めるからである.だとすれば,われわれの社会のコースを変えようと試みるのは正しく適切なのだ.生物的な快適さを充分に与える社会を多くの人が受け入れるからと言って,その社会を受入れることが正当化されるのではない.これは豚小舎の道徳であって,その社会では人間はよく肥えた豚になって屠殺業者の刃物に当るか,自分が畜殺業者になって生きる外はない.
鍛えた男に人間の自由を説くのは無駄である.生と自由はお互いになくては生きられないのだ.1840年にアナーキの名称を無―政府に適用した時,権威に向って新しい宣誓の言葉を鋳込んだのはプルドンだった.次の言葉は彼の場合を述べている.
「未来の政治形態は何んであろうか?わたしは読者のあるものの答えを聞いた.
『何んだってそんな質問をするのですか?あなたは共和論者でしょう.』
共和論者か!だがこの言葉は何も意味しないのだRES PUBLICA: すなわち公共物だ.さて,公共の仕事に興味をもてば誰でも―政体がどうであろうと自分を共和論者と呼び得よう.王様だって共和論者だ.
『それじゃあなたは民主党員か?』
『否』
『では何んですか?』
わたしはアナーキストだ!ちょうど権力と権謀術数が正義の確実な前途の前に退くように.そして最後は平等に解消するように,意志の主権は理性の主権に屈し,最後は科学的社会主義に解消しなければならない.人間が平等に正義を求めるように,社会はアナーキーに秩序を求めるのだ.
「アナーキ―主人や主権が不在であること―さような政体にむかって,われわれは毎日近づいている」
彼は流通活動について答えをみつけ得ず,当時の社会の性質に強制されて,他の商品または仕事と交換される労働抑制の方式に退いた.しかし社会は国家社会主義の時代に進展し,そこでは私有財産が最早存在せず,海と陸地は数年のうちに豊僥なみのりをつけ,人間にかかわらず,過剰に豊かな物質世界となろう.カネのない社会の時代は目前の未来に迫り,社会主義者の要請する各人は自分の能力に応じ,自分の必要に従ってを如何に実施するかの問題はもはや論争の問題ではないのである.それは自由な個人が保持される社会においてのみ,現実政治の問題である.何故なら,われわれがわれわれの上の権威に坐った別な人間の要求を受入れる限り,その権威がわれわれに設定する彼の要求を受入れなければならない.これを彼は強迫や罰の行為でのみ行うが,その最大の武器は社会の食糧を管理することである.
だが理性の人間はわれわれの社会の複雑な類型を見廻わして,個人の自由についてのわれわれの欲望を受入れはするが,それが実際的な命題であることは受入れない.部族,氏族,村落共同体,小さい自治大学や人里離れた修道院ならアナーキストの生活方式の応用も実際的だろう.しかし…と彼は言う…どれほど望ましいからとてそれらを高度に工業化された人口過密の島に応用することはできない.だがわたしは過去のロマンチックな夢想の中に捨て置こう.何故なら,アナーキズムははた織機やくわへ帰れとの叫びではなく,国家社会主義にとって代る論理的な実際的で望ましい生活方法なのだ.アナーキズムは技術者の開発した大量生産の単純化されたすべての手段を受入れ,独占資本家や国家社会主義者が自分達の社会の運営にあたって必受とする抽象的な権威を拒絶するのである.
われわれはれんが造りの建物の宏壮さや輸送網に幻惑されてはならない.かようなものはれんがや鉄に過ぎず,今日の政府の本性または現時の社会の性質にかかわりなく人間が運営しているのである.われわれの社会は各人が共通の善に貢献する責任をもって,共に連合して働く地域社会である.わたしはロンドンを島の上にあるうみにただれたかさぶたと見るのでなく,われわれがロンドンとして認めている都市の職務に貢献することを自分達の責任とした自治グループの統一された連邦であることを認める.
カネのない社会において,人間は現在,富める小数者がやっているように,自分の必要に応じ得ることになろう.衣類,れんが,材木,ミルク,パン,われわれが生産するものすべてはそれを望む者が自由に手に入れよう.もしあなたがこのことの実際性を疑うなら,公共図書館へ行って,カネのない社会がどのように運営されるかを調べるがよい.人々が目分達の必要を充たす為に生産するすべてのものを取るのは,それが富や権力によってではなく,自分達がその富を作りだした社会の部分であるからであって,それを受取るか取らないかは権利であるような時代が必ず来ることを指摘するのは夢物語ではないのだ.「しかし」と例の理性の男が呼ぶ.「なまけ者や食客はどうだ.みんなそうなるのかね?」その答はアナーキスト社会の小さい共同体内では人間は小社会で自分の役割を果さねばならぬというのが公衆の意見であるから「否」である.食客やなまけ者については,彼等の前に置かれた食物を自由に取らせ.空地や空部屋に住まわせるがよい.だが彼等が社会に対して,電力や水や灯りを要求したら,その答はこうである.「同志よ,ぼくたちはさみを助けよう.しかしきみは社会を援助するのに何をしているのかね?」もしその答が「なんにもしない」というのであれば,こう言うだけだ.われわれの食物や住居は働かないものを除いて,自由に与えられる……と.この選択は彼が社会の中で自分の役割を果す意志があるかどうかに委せられている.
「彼の欲するのが何んであっても,社会の食物と住居は拒絶されることはない.もしそうでなかったら,未来に対するわれわれの要求は政治的いんちき専門家と同じく嘘になる.再び例の理性家が叫ぶ.さような小さい自治体では酔っぱらいや与太者がいるだろう.われわれはこれがいつものようであることを願おうではないか.しかし英国の小さい人里はなれた村でしているようにさような者達の管理法をあらためて学習しなければなるまい.われわれは個人として責任を受入れ,膨張する父祖の国において充電された労働者の役を受入れなければならない.
もしアナーキスト社会が大量生産の製造で効果が少く,人々の大部分がその目的に無関心で,人間的逃げ口上として個人の自由を強調するのなら,もし小さな多くの仕事につまづくのなら,また外部の権力が自己の目的のためにアナーキスト社会を砕くのなら,それはなおすべての人間にとっての導きの原理であり望まれる目的である.なぜならこれこそ人間蟻の盲目的恐怖の無思想な受入れにとって代る唯一の道を人間に提供するからである.われわれは眼前にくりひろげられる歴史の夜明けに立っているのだ.
幾世代もが人間の決して到達できない限りない境界線をもとめて,待ちかまえた無の中へ飛びこむだろう.この技術効率の世界では,死と宇宙が共通のゴールになった.われわれは人間の救いに天然の松明をかかげ,地上で求め得る抗いがたい善は人間の自由であるというタルシスの叫びを付して訊ねよう.「ところであなたはどちら側に立つのか?」と……
〔ノート〕
この論文は1966年6月ウインチェスター大学.「キャリバン」から採録したアナーキストの週刊新聞“フリドム”3月25日号より収録翻訳したものです.
(アーサモイーゼ、訳者不明)
