1.はじめに
ナショナリズムとリバタリアニズムは、一見すると水と油の関係にある。通俗的な理解において、前者が集団的なアイデンティティや国益を重視するのに対し、後者は個人の自由と権利を最優先すると思われているからだ。しかし、現代のオーストリア学派経済学者ヘスス・フエルタ・デ・ソトは、その著述において両者の融合を試みている。彼はネイションを国家から切り離された「自生的秩序」として捉え直すことで、リバタリアン的な国際秩序を構想した。
2.フエルタ・デ・ソト (2023)“A Theory of Libertarian Nationalism”の要約
フエルタ・デ・ソトは、ナショナリズムが共産主義の打倒や中央集権への対抗として機能した側面を評価しつつも、それが「介入主義」と結びついた際に戦争や抑圧を生む危険性を指摘する。彼はオーストリア学派の知見を用い、ネイションを「市民社会のサブグループ」であり、言語や文化によって構成される「自生的な秩序」と定義する。市場と同様、ネイションも絶えず変化し、競争し、重複する動的なプロセスであるため、特定の地理的国境に固定しようとする試みは紛争を生むとされる。
フエルタ・デ・ソトは、諸ネイション間の平和的協力を可能にするために以下の「4つの基本原則」を提唱する。
- 自決権の原則:各社会集団がどの政治的集団(国家)に属するかを決定する自由。
- 完全な自由貿易:保護主義の排除。
- 移住の自由:ただし、福祉国家による助成や即時の参政権付与は伴わず、私有財産権の尊重を前提とする。
- 非国家的貨幣制度:金本位制など、政治家が操作できない通貨制度。
フエルタ・デ・ソトによれば、これらの原則が満たされれば、ナショナリズムは健全な競争を生み出す。そして、このシステムにおける国家の役割とは、これら4原則を法的に具現化することに限定される。具体的には、EUやスペイン国家のような上級の政治組織が、下位の地域政府(カタルーニャなど)に対し、規制や課税の上限を設定し、地方政府による介入主義(市民への抑圧)を防ぐ権限を持つべきだと論じている。
3.フエルタ・デ・ソト(2023)への批判
デ・ソトの理論は、ネイションと国家を概念的に分離した点において有益だが、その論理構成には看過できない重大な欠陥が存在する。
(1) ナショナリズム理解の偏りと「ナショナル・ソーシャリズム」の恣意性
第一に、フエルタ・デ・ソトはナショナリズムが歴史的に果たしてきた「個人解放」の側面を過小評価している。彼はネイションを市場の競争単位のように客観視し、既存の近代主義的なネイション観(カタルーニャ、バスク等)を所与の前提としているが、ナショナリズムが伝統的身分制から個人を解放し、自律的な主体を形成したダイナミズムは見落とされている。
また、彼は保護貿易や規制介入を行うナショナリズムを「ナショナル・ソーシャリズム(National Socialism)」と呼んで批判する。これは明らかにナチズムを想起させる強烈なレトリックであり、現代の介入主義的な地域ナショナリズムを全体主義と同一視するための政治的なレッテル貼りである。この用語法は批判的含意が大きすぎ、経済的な介入主義の弊害を論じるための分析概念としては客観性を欠いている。
(2) 政治的集団と国家の混同
フエルタ・デ・ソトは自決権を論じる際、「政治的集団(political group)」と「政治的国家(political state)」を混同している。彼は人々が「どの政治的国家に含まれたいか」を選ぶことを自決権とするが、ここには「国家」という強制装置以外の統治形態や、国家を形成しない政治的連合の可能性への想像力が欠如している。結局のところ、彼の理論は既存の主権国家システムを自明視した上で展開されている。
(3)「自由のための強制」というパラドックス
最大の批判点は、リバタリアニズムを標榜しながら、その実現手段として国家権力の強化を肯定してしまうパラドックスにある。フエルタ・デ・ソトは、地方政府の暴走(介入主義)を防ぐために、上級国家組織が規制や課税の上限を設定し、監視する権限を持つべきだと主張する。
これは「自由を強制するための集権化」に他ならない。自生的な秩序や競争を説きながら、最終的には上位の政治権力によるトップダウンの制限に依存するこの補足は、あまりに国家主義的である。4原則自体が持つ「自発的協力」や「非強制」という意味はこの補足によって毀損され、リバタリアン・ナショナリズムは「良き独裁者」による管理を正当化する理論へと変質してしまっている。
4.リバタリアン・ナショナリズムの地平
フエルタ・デ・ソトの理論的失敗は、リバタリアニズムの理想を「国家機構を用いて」実現しようとした点にある。今日、ナショナリズムとリバタリアニズムの障壁を乗り越えるためには、フエルタ・デ・ソトが提示した「4原則」を、国家による強制的な法規制としてではなく、グラウンドとして再定義する必要がある。
ミーゼスが「唯一の真の民族自決とは、国家や社会に対する個人の自由である」と述べたように、リバタリアン・ナショナリズムの核心は、集団の権利ではなく個人の権利にある。フエルタ・デ・ソトが望んだような「上級国家による介入規制の上限設定」は、短期的には自由を保護するように見えるかもしれないが、長期的にはその権力が逆用されるリスクを孕む。
真のリバタリアン・ナショナリズムを打ち立てるためには、EUや中央政府による「監視」に頼るのではなく、完全な分権化と脱退の自由(secession)を徹底し、悪い政策をとる地域が住民や資本の流出によって自然淘汰されるという、厳格な意味での「競争」に委ねる覚悟が必要である。フエルタ・デ・ソトの4原則を国家主義的な管理の道具から解放し、自生的秩序のダイナミズムそのものに信頼を置くことこそが、リバタリアン・ナショナリズムの正当な地平である。
参考文献
Huerta de Soto, Jesus. (2023). Statism and the Economy: The Deadliest Virus (1st ed.). Routledge. https://doi.org/10.4324/9781003438915
グリーンフェルド,リア. (2016; 2023). 『ナショナリズム入門』. 訳: 小坂恵理. 慶応大学出版会.
スミス,アンソニー. (2010; 2018) 『ナショナリズムとは何か?』. 訳: 庄司信. 筑摩書房.
(芦部衣杓)
