『平和な日本』の外側へ:帝国主義と国家を拒否する反戦運動

 アメリカおよびイスラエルによるイランへの空爆が行われ、中東情勢の緊張が一層高まっている。こうした軍事行動に抗議するため、3月1日には大阪にあるアメリカ総領事館前で抗議行動が呼びかけられ、参加者はアメリカによる軍事攻撃の停止を求めて声を上げた。

 こうした抗議行動で、「このままでは平和な日本にいる私たちも戦争に巻き込まれるかもしれない」というスピーチが語られることがある。この言葉は一見もっともらしく聞こえる。しかしその前提にある政治的想像力には大きな限界があるのではないか。

 まず「平和な日本」という自己規定そのものが、国家によって作られた神話であることは疑いようもない。戦後日本において、確かに領土内で戦闘行為が行われることはなかった。しかしそれは、日本社会が戦争の外部にあったということを意味しない。

 日本は米軍基地を通じてアメリカの軍事ネットワークに組み込まれ、アジア太平洋地域における軍事秩序の重要な拠点として機能してきた。たとえばベトナム戦争の際には、嘉手納基地や横田基地から米軍機が出撃し、日本の港湾や基地が兵站拠点として利用された。戦争は日本の外で行われていたが、その戦争を支えるインフラの一部は確実に日本社会の内部に存在していた。

 こうした構造は冷戦期だけのものではない。2001年のアメリカ同時多発テロ以降に展開された「対テロ戦争」の時代にも、日本は同様の役割を果たしてきた。日本政府はアフガニスタン戦争を支援するため、海上自衛隊をインド洋に派遣し、米軍や同盟国の艦艇への給油活動を行った。これは直接的な戦闘行為ではないと説明されたが、実際には軍事作戦を支える兵站活動であり、戦争機構の一部として機能していたことは明らかである。日本社会は「戦争に巻き込まれる可能性のある外部の存在」だったのではなく、すでに戦争体制のネットワークの中に組み込まれている。

 畢竟、「巻き込まれる」という言葉が前提にしている政治的主体のあり方を照射しなければならない。この表現は、日本社会を帝国主義的な暴力の外側に置き、あたかも受動的な被害者であるかのように描き出す。しかし現代における権力関係とは単純な外部と内部の対立として存在しているわけではない。軍事同盟、基地、経済、メディア、ナショナルなアイデンティティといった無数の装置が絡み合いながら、帝国的な秩序は社会の内部で日常的に再生産されている。

 したがって、「日本が戦争に巻き込まれるかどうか」という問い自体が、依然として国家中心的な枠組みにとどまっている。そこでは政治の主体は常に国家であり、社会はその外側で影響を受ける存在として想定されている。しかし一連の攻撃が示唆するのは、国家を単なる外部の権力としてではなく、社会の内部で再生産される関係の網の目として捉え直す必要性である。

 基地の存在とは、国家の安全保障政策だけで維持されているわけではない。地域経済への依存、雇用構造、メディアの言説、さらには「現実的な安全保障」という社会通念など、さまざまな装置が基地の存在を正当化している。帝国主義的な秩序は国家だけによって維持されているのではなく、社会の内部に埋め込まれた複数の関係の中で再生産されている。

 こうした批判は、単にアメリカの軍事行動に反対することだけを意味するわけではない。反帝国主義の立場とはしばしば誤解されるように、アメリカに対抗する国家を支持することではない。ベネズエラやイランのようにアメリカと対立している国家が存在するとき、帝国主義批判がそれらの国家体制への支持に転化することがある。とりわけ「反帝国主義」や「反革命戦争阻止」といったスローガンを掲げ、国旗を反戦運動で掲げながら、結果としてそれらの国家権力を擁護する立場に傾くことさえある。アメリカに対抗しているという理由だけで国家体制を防衛するならば、国家間対立のどちらか一方に身を置くことにすぎない。

 国家権力そのものが支配の装置である以上、どの国家にも無条件で与することはできない。国家とは社会を調整する中立的な制度ではなく、暴力の独占を通じて支配関係を維持する装置である。軍隊や警察、官僚機構によって組織された国家は、その内部において社会運動や労働者の自律的な力を統制し、秩序の名のもとに服従を強いる。たとえ誰が指導者の地位に就こうとも、この構造そのものが変わるわけではない。権力の座に座る人物が入れ替わっても、国家が存在し続ける限り、支配と統制の関係は再生産されていく。

 アナキズムやリバタリアンの歴史は、国家権力を革命の道具として利用できるとする発想に対して根本的な批判を向けてきた。たとえそれが「反帝国主義」や「社会主義」を掲げる国家であっても、国家を握る新しい支配層が形成されるならば、そこでは支配と抑圧が再生産されることになる。実際、20世紀の多くの革命国家が示したのは、国家権力の強化が解放ではなく、新たな統治体制の成立へと帰結するという現実だった。

 したがって、帝国主義とは巨大な暴力装置であるが、それに対抗する国家権力もまた同じく統治と抑圧の装置として機能している。反帝国主義とは、ある国家を別の国家に対して支持する立場ではなく、国家体系そのものが生み出している支配と戦争の構造を批判し、そこに抵抗する可能性を探る立場ではないか。

 国家および政府の廃止を訴えるのであれば、この二項対立を乗り越える必要がある。つまり、帝国主義的な秩序を批判することと、国家権力そのものを批判することを同時に行う必要がある。アメリカの軍事行動に反対することは不可欠だが、それが別の国家体制への支持に転化してしまえば、結局は国家同士の地政学的対立の枠組みに回収される。

 その意味で、「平和な日本が戦争に巻き込まれる」という言い方は、問題をナショナルな被害の枠組みに閉じ込めてしまう危険がある。問題は日本が戦争に巻き込まれるかどうかではない。むしろ、日本社会そのものが帝国主義的な秩序のネットワークの中に組み込まれているという現実である。戦争を遠くの出来事として恐れるのではなく、その秩序がどのように自分たちの日常の中で再生産されているのかを問い直すことから、国家と帝国の論理に依存しない別の政治的可能性を考えることができるのではないか。

 「戦争に巻き込まれるかもしれない」という恐怖から出発する平和主義は、最終的には国家の安全保障論理を強化することになる。重要なのは国家の平和を守ることではなく、国家と帝国の秩序がどのように再生産されているのかを可視化し、その回路を断ち切ることである。戦争はどこか遠くの出来事ではない。それはすでに、私たちの社会の内部に埋め込まれている。

 次の攻撃対象がどこになるのかはわからない。今日がベネズエラやイランであるなら、明日は別の土地、別の人びとかもしれない。帝国主義は終わることなく新しい敵を作り出し、常に「安全」や「平和」という言葉を掲げながら戦争を準備する。だがそれは、どこか遠くの場所で爆弾が落とされ、別の誰かが殺されることで維持されてきたまやかしの平和である。帝国主義は、敵と味方という境界線を引き、人びとを国家の側に引き戻そうとする。だが私たちはその境界線そのものを拒否しなければならない。
次の戦争を止めるのはどの国家でも政治家でもない。国境を越えてつながる人びとの反乱である。どの国旗にも服従せず、国家が作り出す戦争の世界に対して、私たちはその秩序を攪乱し、拒否し続けなければならない。いま必要なのは、そのための闘いである。

(太田やくーと)