目次
- はじめに
- 日本の中絶
- リバタリアンの議論
- 私見
- おわりに
- 参考
はじめに
アメリカでは中絶の権利について、激しい対立が存在する。そんな中、アメリカの最高裁は、中絶の憲法上の権利について、判例を変更する可能歳が出てきた(参考、POLITICO「Supreme Court has voted to overturn abortion rights, draft opinion shows」)。この流出した判決草案がもし本物で、その結論が維持されると、今後アメリカでは、中絶をより厳しく規制することが可能になる。
アメリカの憲法解釈は日本の憲法学に大きな影響を与えることから、上記の判決は今後の日本にも大きな影響を与えるかもしれない。
私がアメリカの憲法解釈の最前線について解説するのは正直なところ、手に余る。
そこで、本稿では憲法議論からは距離を置き、道徳的な問題や現実社会の問題に焦点を当てたい。まず、日本の法制度について紹介する。次に、中絶に関するリバタリアンの議論(特にロスバード)を紹介し、最後に私見を述べたいと思う。
本校の目的は端的に言えば①日本の人口妊娠中絶の法制度に(多少でも)関心を持っていただくきっかけを提供すること、②中絶の権利をめぐる問題について妊娠者の立場を擁護すること③妊娠者の権利と、胎児の利益が調和する方法を提案すること、である。
中絶について傷つくのは、中絶を選択する本人であって、部外者が口を出すようなことではないのかもしれない。しかしながら、部外者であっても擁護しなければ事態は改善しないだろうから、本稿を皆さんに提出したいと思う。
本文に入る前に、妊娠している人や胎児の立場・心情を想像することが重要だ、ということは強調しすぎることはない。
また、本稿よりわかりやすいコンテンツが多数あるだろうから紹介したい。
アゴラ「日本産婦人科医会のあきれた要望:経口中絶避妊薬の薬価740円が10万円?」
Netflix「彼女の権利、彼らの決断」
日本の中絶
日本において中絶を規律するのは主に「刑法(212条-216条)」「母体保護法」である。そのほかにも、様々な行政関連の法や、省令、通知などもある。
日本において中絶をすることは原則として禁止されている。「妊娠中の女子が…堕胎したときは…懲役に処する。(刑法212条)」「女子の嘱託を受け、又はその承諾を得て堕胎させた…懲役に処する(同213条、214条)」。
例外として
「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」(母体保護法14条1項1号)
「暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」(母体保護法14条1項2号)
のどちらかに該当する場合は、「本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができ」、「配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる」(母体保護法14条1項柱書、2項)。
同意要件については、近年、DVや家庭崩壊などの場合には同意が不要との指針が示された。同要件は、配偶者による医師への訴訟リスクを生じさせ、DVやレイプによる妊娠出産を助長してきた(と言われる)。
そのほかの規制としては、経口中絶薬の未承認などがある。1970年台の中ピ連のように、経口中絶薬を要求する運動は日本でも存在したが、与党議員(あるいは世論)や産婦人科医会からの反対もあり未承認に留まっている(去年の末に承認申請が行われた)。
経口中絶薬の承認が求められる理由として、①「安全で効果的だとしてWHO=世界保健機関が「必須医薬品」に指定していること」②「海外では1988年から使われ、現在では日本で申請された薬はおよそ80か国、そして、薬による中絶はおよそ100か国で承認されていること」③「海外ではオンラインで診察し、処方している国もあること」⑴などが挙げられている。
「海外での経口中絶薬の平均価格(調達の際の参考価格)は日本円にしておよそ430円からおよそ1300円ほど」であるが、日本産婦人科医会は、特定の医師の管理の下で薬が使われるべきで、「薬の処方にかかる費用について10万円程度かかる手術と同等の料金設定が望ましいとする考えを示し」ている。⑵
これが示唆することは、女性の自己所有権は利権や選挙のための一要素となっている現状だ。
リバタリアンの議論
リバタリアニズム内部でも、中絶の問題は対立している(もっとも、私の狭い認識に基づけば、中絶は合法であるべきと考える人がほとんどのようである)。リバタリアン協会には、胎児に人格を認めた上で生命への権利的な概念を主張する者もいる。
さて、ここではロスバードの議論を参照したい。なぜなら自己所有権テーゼの論理的帰結だと思われるからである。少々長くはなるが、彼の中核の理論を引用しよう。
「妊娠中絶の分析の適切な基礎は、万人の絶対的な自己所有権である。これが直ちに意味しているのは、すべての女性は自分の身体への絶対的な権利を持っていて、自分の身体とその中のすべてのものへの絶対的な支配権を持っている、ということである。それらのものの中には胎児が含まれる。大部分の胎児は母親がその状況に同意したからその子宮の中にいるのだが、胎児がそこにいるのは母親が自由に与えた同意のゆえである。だがもし母親が、もはや胎児にはそこにいてほしくないと決意したら、胎児は母親の人身に寄生する『侵略者』になり、母親はこの侵略者を自分の領域から追放する完全な権利を持つ。妊娠中絶は、生きた人格の『殺人』ではなく、母親の身体からの望まれざる侵略者の追放として見られるべきである。それゆえ妊娠中絶を制限あるいは禁止するいかなる法律も、母親の権利の侵害である」⑶
ここで、彼はトムソンが用いた比喩を引用する。ここでは日本人に合わせて少々アレンジしよう。
かりに私が死に至る病に罹っているとしよう。そして私の命を救い得るのは、菅田将暉の冷たい手で、熱のある額を触れてもらうことだけだとする。しかしながら、私には菅田将暉に対して、自分に触れるように強制する権利はない。
要するに、トムソン曰く「生きる権利を持つということは、他人の身体を与えられる権利や、他人の身体の継続的使用を認められる権利を持つということを保障しないーたとえ生命自体のためにそれが必要であったとしても」。⑷
さて、このような権利観に対しては、フェミニズムの立場から強烈な批判があることも紹介しておきたい。
まずは、S.M.オーキンによる批判で、リバタリアニズムの所有概念(特にノージックの権限理論)によれば、あらゆる人は母親より生産されることになるから、誰も自己所有権者たり得ないというものである⑸。ロスバードも母親による子の所有を肯定するが、子は別個独立の存在であり自己所有権者であると反論し、子供に危害を加えることは許されないとする。
次に、キャサリン・マッキノンは、胎児は「私であり、私でない」両義的存在であり、境界の曖昧さを論じる。妊娠者と胎児の境界が曖昧であるという主張には説得力を感じるし、実際そうだろう。だが、抜け毛も垢も、性行為の相手、握手の相手であっても同様のことが言える。むしろ、胎児は独立で自己増殖を維持できない(胎内での栄養を必要とする)ので、髪の毛や細胞に近しい存在であろう(もちろん胎児の生命は神秘的であるが)。
私見
実際に望まぬ妊娠をした者や、中絶したいと考える者にとっては、上記のような議論は役に立たないのかもしれない(もちろん法について考える上で必要であるとは思う)。中絶を望む者は、中絶によって殺人のレッテルを貼られたり、胎児への懺悔の気持ちからショックを受けることもあるだろう。これ以外にも様々な判断・問題に直面すると思われる。
本当に必要なのは、法制度上は中絶を認めた上で、社会がそれを支えることではなかろうか。
まず、そのような状況に置かれた人は、誰にも相談でずに孤立している可能性がある。それは、中絶に関する世の否定的見解がそうさせる。まず、国家は法によって特定の価値観や道徳を押し付けるのをやめるべきである。堕胎罪や母体保護法は廃止し、傷害罪などに統一されるべきだと思う。社会の側も、相談しやすい空気感を醸成することが重要だろう(もちろん否定的な見解があれば健全だが)。
加えて、そもそも望まない妊娠をしないようにアフターピルや避妊具の規制を緩和すべきである。そして、それらは企業やNPO法人の活動を通じて周知されよう。
さらに、経済的な事情から育児を望まないが、中絶に抵抗があるといった人は、(妊娠・出産による体調不良等を受け入れた上で)お寺や教会、養子マッチングサービス、赤ちゃんポストなどを通じて出産者の利益と胎児の利益の調和を図ることができるかもしれない。
そのためには親には子を売買・贈与する権利を、子には親から逃げ出す権利、新しい養親を見つける権利、自活して生きようとする権利を認めるべきである。
売買・贈与という語に反感を覚える方もいるかもしれない。こう言い換えたい、里親、養親・養子・後見の制度を大胆に自由化すべきである、と。例えば、同性パートナーが特別養子縁組を利用できず、普通養子縁組によるしかないとか、自治体によっては里親になれないという事情がある。
婚姻制度を廃止することによって、様々な家族の形が発見され、今よりも出産・育児が容易になるかもしれない。また、名誉毀損罪を廃止することによって、養育契約を履行しない元配偶者をネット上にリスト化可能にし、社会的制裁を加えることによって、養育費を担保できるかもしれない。
おわりに
知人の弟は不登校状態だったのだが、親は教育の重要性を諭しながらも、それを容認し自習教材を与えていた。ある日、児童相談所の職員は、義務教育を受けさせるのは親の義務でありそれをしなければ虐待だから、保護することになると親を脅迫した。この脅迫は定期的に続いた。当初は、親は優しく不登校の原因を尋ねるだけだったが、学校へ行くようにヒステリックに怒鳴りつけるようになった。
後になってわかったことだが、知人の弟はいじめを受けていた。相談所職員が実際にしていたのは、親に対し子を奪うと脅迫し、親をして子供をいじめの現場に向かわせるように説得させ、子と親の関係性を破壊しただけであった。
同様に、深夜に子供を指導する警官は、家出したくなるほどの地獄に子供を更迭し、親の支配力を強化するサービスを税金により賄っている。
ここから読み取れることは、政府の介入は碌なものではなく、親と子供の自由を促進するにとどめるべきだということだ。子供の権利・福祉といった概念は、親・子供を「健全な社会という名の監獄」に留めるために生み出されたにすぎない。
参考
⑴https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211222/k10013398921000.html、(確認 2022-05-04)。
⑵https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211223/k10013400821000.html、(確認日同上)。
⑶マレー・ロスバード「自由の倫理学」2003、勁草書房、p115-117。
⑷Thomson, “A Defense of Abortion”, 55-56. 本稿では「自由の倫理学」p117より孫引き。
⑸スーザン・M.オーキン「正義・ジェンダー・家族」、訳 山根純佳 内藤準 久保田裕之、2013、岩波書店、p116-141参照。
*本記事は「リバタリアン協会(LS)」のnoteにて[2022年5月5日 07:46]に公開されたものです。
「米最高裁判所が「中絶の権利は憲法上の権利でない」と判決しそうな件について:中絶の権利を擁護する」(https://note.com/ls_jpn/n/n0c037c468699)より。