なぜリバタリアンは戦争反対・核兵器に反対なのか

 リバタリアニズムは、単なる遠い未来の理想ではなく、現実世界の重要な問題に適用できる理論でなければならない。なかでも戦争と核兵器は、リバタリアンが最も真剣に取り組むべき問題の一つである。 リバタリアンが戦争・核兵器に反対するのは単なる平和主義ではない。戦争・核兵器がリバタリアンの正義に反する犯罪だから反対しているのである。

リバタリアンの理論

 リバタリアン理論の出発点は、非侵略原則である。すなわち、何人も他人の身体や財産に対して、脅迫や暴力を開始してはならない。暴力が正当化されるのは、自分や他者に対する侵略を行っている者に対する防衛の場合だけである。 しかし、ここから重要な問題が生じる。侵略者に対する防衛が正当だとしても、その防衛のために無関係な第三者を攻撃してよいのだろうか?答えは否である。
 たとえば、AがBから攻撃を受けているとしても、AにはBを撃退する権利しかない。Bを倒すために無関係なCの家を爆破したり、Cを殺したりする権利はない。たとえAの目的が正当なものであっても、無実の第三者に対する侵害は、それ自体が犯罪である。したがって、正当な目的は、無関係な人間に対する侵害を正当化しない。この原則を戦争に適用すると、戦争に対するリバタリアンの立場が見えてくる。

リバタリアンの理論は戦争に対してどのように適用されるか

 戦争とは、広い意味では人々や集団の間で行われる公然たる暴力である。侵略者に対する防衛そのものは正当化できる。しかし、防衛する側にも無制限の暴力が許されるわけではない。侵略者を撃退するために、無関係な人々を殺害したり、財産を破壊したりするならば、防衛する側もまた犯罪を犯すことになる。
 例えば、集団Aが集団Bによる攻撃を受けた場合はどうか?集団Aが集団Bに対して防衛のために暴力を用いることは正当である。しかし、集団Aが無関係な集団Cからお金を巻き上げて戦費を調達したり、徴兵して戦わせたり、殺したりした場合は状況が異なる。集団Aは集団Cに対して犯罪を行ったことになるのだ。
 戦争において国家は、戦争に反対する無辜の人々から戦費調達のために税金を巻き上げ、徴兵し戦わせ、敵国の領土内の無辜の人々を殺すことになる。こうした行為は犯罪としてとらえられなければならない。したがって、リバタリアンにとって正当な戦争とは、理論上、暴力の対象を実際の侵略者に厳密に限定した場合だけである。しかし、国家間の戦争がそうではないことは明らかであり、不当である。
 さらに重大な問題は、戦争が国内の国家権力を急激に拡大させることである。ランドルフ・ボーンの言葉を借りれば、「戦争は国家の健康」である。戦争になると、国家は軍事力、経済、社会を広範囲に支配するようになる。徴税が増え、徴兵が行われ、政府による統制が強まり、反対意見が抑圧される。社会全体が「敵」と「味方」に分けられ、戦争への反対者が国家への裏切り者として扱われることさえある。また、赤字国債の発行により人々の資産を毀損したり、金などの資産を没収する。加えて、緊急事態の名のもとに規制を強化し、人々に強制力を働かせることになる。このとき国家は、国民を守るという名目で、むしろ国民の自由を制限する。
 そして国家にとって最も重大な犯罪は、必ずしも私人の生命や財産を侵害する犯罪ではなく、国家自身の権力を脅かす行為になりやすい。反逆、脱走、徴兵拒否、政府転覆などが特に重く処罰されるのは、そのためである。

リバタリアンの理論は核兵器に対してどのように適用されるか

 核兵器に対して、「昔の武器と本質的には同じで、単に破壊力が大きいだけだ」という見方がある。しかしリバタリアンはそれ以上に重要な違いがあると考える。弓やライフルは、侵略者だけを狙って使用することが理論上可能である。しかし核兵器のような現代の大量破壊兵器は、その性質上、無関係な民間人を大量に巻き込むことを避けることができない。つまり問題は単なる破壊力の大小ではない。「特定の侵略者だけを攻撃できるかどうか」という、質的な違いが存在するのである。非侵略原則からすれば、無実の人間を大量に殺すことは、正当な防衛という目的によっても正当化できない。したがって、核兵器などの大量破壊兵器の使用だけでなく、その使用を脅迫すること自体も重大な問題となる。
 核兵器については、「核兵器は使うためではなく、戦争を防ぐために存在する」という反論がある。相手が核攻撃を行えば、自国も核によって報復する。その結果、双方が破壊されることを恐れて攻撃しない。これが核抑止である。しかし、ロスバードの論理からすれば、ここにも問題がある。核抑止は、結局のところ、「攻撃すれば大量の人間を殺す」という脅迫によって成立している。個人が無関係な人間を殺すと脅迫することが許されないのであれば、国家だからといって、その原則から免れる理由はない。しかも核兵器には有効な防御手段が存在せず、現在の「防御」は相手にも同じだけの破壊を与えるという相互破壊の脅威に依存している。したがって、核兵器は単なる軍事技術の問題ではなく、人類の生存そのものを脅かす問題となる。
 核軍縮は単なる一つの政策ではない。現代の大量破壊兵器は、民間人への大量殺戮を避けることができず、文明そのもの、人類そのものを破壊する可能性がある。しかも核兵器には、攻撃を防御的に止める有効な手段が存在しない。そのため、リバタリアンにとって核兵器をなくすことは、単なる平和運動ではなく、人間の生命と自由を守るための最重要課題となる。小さな政府、減税、規制撤廃、公共サービスの民営化なども重要な課題だが、人類そのものを滅ぼす可能性のある大量破壊兵器の問題は、それらよりはるかに重大である。

国家間戦争はなぜ特に問題なのか

 国家とは、特定の領土において暴力を独占する組織である。国家は課税によって国民から強制的に資金を徴収し、その権力を維持する。平時においても、国家は国民に対して強制力を行使している。国家間戦争になると、この構造がさらに拡大する。国家は戦争のために国民からより多くの税金を徴収し、社会全体を戦争目的のために動員する。つまり、国家間戦争とは外国に対する暴力だけではない。自国民に対する課税や動員という侵害も同時に拡大するのである。
 国家間戦争には、個人間の紛争とは異なる特徴がある。第一に、交戦国がそれぞれ異なる領土を支配しているため、戦場と民間社会を完全に分離することが難しい。第二に、国家は国民と資源を総動員できるため、敵国の国民全体が戦争を支えているとみなされやすい。第三に、近代兵器は破壊力と射程が巨大であり、軍事目標だけを正確に攻撃することが難しい。このため、国家間戦争では、戦闘員だけでなく無関係な民間人まで攻撃の対象となる。特に核兵器、細菌兵器、ロケットなどの大量破壊兵器では、この問題が極端になる。
 個人間の紛争や一部の革命と、国家間戦争は区別される。個人間の紛争では、暴力を実際の犯罪者に限定することが可能である。革命の場合にも、支配者に対してのみ暴力を向けることが理論上可能である。しかし国家間戦争では、国家が領土と住民を一体として動員するため、民間人を戦争から完全に切り離すことが困難になる。さらに、戦争には課税が伴う。個人が自発的な寄付によって戦うこととは異なり、国家は納税者から強制的に資金を徴収する。したがって国家間戦争は、敵国の民間人に対する暴力と、自国民に対する課税・動員という二重の侵害を伴う。このため、ロスバードは、自由主義者は国家間戦争を原則として非難すべきだと論じる。

「自国を守るために国家を支持すべきだ」という反論

 ここで、「国家が現実に存在する以上、侵略から国民を守るために、リバタリアンも自国政府を支持すべきではないか」という反論がある。リバタリアンの答えは、国家の存在を認めることと、その国家が他国を攻撃することを支持することは別問題だ、というものである。国家が存在しているとしても、リバタリアンは国家に対して、「自分の領域に活動を限定し、他国を攻撃するな」と要求すべきである。リバタリアンの目的は、国家を完全に理想化することではなく、現実に存在する国家による人身・財産への侵害を可能な限り小さくすることである。したがって国際関係においては、各国の国民が自国政府に戦争をやめるよう圧力をかけ、戦争が起きた場合にはできるだけ早く和平交渉と停戦を求めるべきである。
 外国に住む自国民を守るための戦争も正当化できるのか?たとえばA国の国民がB国に旅行したり投資したりして、その財産をB国政府に奪われたとする。この場合、「A国は自国民を守るためにB国と戦争すべきだ」という議論があり得る。しかしこれも認められない。A国が自国領域外にいる国民を保護するために戦争を行えば、A国の納税者から資金を強制的に徴収し、その結果としてB国の無関係な人々を殺害することになるからである。外国へ旅行したり投資したりすることには、当然ながらその国の国家権力にさらされるリスクが伴う。したがって、一部の国民を守ることを理由に、別の多数の無関係な人々を攻撃することは正当化できない。

リバタリアンの平和政策

 では、リバタリアンは具体的に何を主張すべきなのか。第一に、国家に他国への戦争を始めないよう圧力をかけること。第二に、戦争が始まった場合には、できるだけ早く和平交渉と停戦を求めること。第三に、戦争が続いている場合でも、民間人への攻撃を可能な限り縮小すること。このためにロスバードは、伝統的な国際法に存在した「戦争法」と「中立法」を重視する。戦争法の基本的な考え方は、敵対行為を実際に戦闘している軍隊に限定し、戦闘員と非戦闘員を区別することである。中立法は、戦争を交戦国同士に限定し、中立国やその国民まで戦争に巻き込まないことを目的とする。リバタリアンは、こうした原則を復活させ、国家間の戦争を可能な限り限定すべきである。

不干渉・中立主義

 国家間の平和共存からは、外国への不干渉という政策も導かれる。国家Aが国家Bに軍事援助を与えれば、その費用をA国の国民から徴税することになる。さらに、B国の政府に軍事力を与えることで、その政府による自国民への弾圧を強化する可能性もある。したがってリバタリアンは、原則として外国政府への軍事援助や国家間の干渉を否定する。これは「孤立主義」や「中立主義」とも結びつく。ただし、外国の国家そのものではなく、国家に対抗する自発的な革命運動への民間人による支援については、国家間戦争とは異なる問題として扱われる。

帝国主義への反対

 帝国主義とは、一国が別の国の人々を侵略し、その支配を維持することである。リバタリアンはこれを明確に否定する。「帝国支配のほうが、現地にできる政府よりも財産権を尊重するかもしれない」という理由で帝国主義を支持することもできない。なぜなら、既に行われている侵略そのものが明白な権利侵害だからである。さらに帝国主義は、征服戦争や植民地統治の費用を自国の納税者に負担させる。したがって帝国主義は、征服される側だけでなく、征服する側の国民に対する侵害でもある。
侵略された国が領土を取り戻すにはどうするのか?反戦論に対しては、「侵略によって領土を奪われた場合、それを取り戻せなくなるのではないか」という問題がある。これは国家間戦争によって解決する必要はない。まず平和的交渉を行う。それが失敗した場合には、征服された地域の住民自身による革命的蜂起が考えられる。また、国家ではなく民間団体や個人が、その反乱勢力を支援することも考えられる。重要なのは、国家が他国の一般市民を巻き込む全面戦争を行うのではなく、侵略者そのものに抵抗することである。

さいごに

 リバタリアンは、戦争を始めないこと、戦争を早期に終わらせること、民間人への攻撃を最小限にすること、外国への不干渉を守ること、そして核兵器をはじめとする大量破壊兵器を廃絶することを追求すべきである。

参考

マレー・ロスバード「戦争、平和、国家」
https://mises.org/articles-interest/war-peace-and-state

(中条やばみ)