Saifedean Ammousと批判的実在論の交差点

編集より

 本稿は以下より閲覧可能である。

https://note.com/bitcoinstandard/n/n781f4cda6c78

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 Saifedean Ammousは、全世界で100万部以上を売り上げ、39ヶ国語に翻訳されている著書『ビットコイン・スタンダード』で知られる経済学者である。しかし、日本においてビットコインは未だに投機や詐欺の文脈で語られることが多く、その本質的な経済学的意義、またAmmousの提示する経済思想が真剣に検討される機会は極めて限られている。

 『ビットコイン・スタンダード』はオーストリア学派経済学という、世界中の大学で一般的に教えられている経済学とは趣を異にする「異端派経済学」に分類される経済思想に基づいて、ビットコインの意義を擁護した画期的書物である。ビットコインを支持できる体系的な経済学が提示されたことにより、ビットコインを深く理解するためには、この「異端」と呼ばれるオーストリア学派の理解を避けて通ることができない。近年出版されたAmmousの著書『Principles of Economics』(未邦訳)は、いわば現代におけるオーストリア学派の教科書である。『ビットコイン・スタンダード』を著した本人が、どのようにオーストリア学派を理解しているかを知ることは、来るべき「ビットコイン・スタンダード」の時代に必要な考えを準備する上で不可欠である。

 Saifedean Ammousは『Principles of Economics』第1章において、主流派マクロ経済学の方法論に対する根源的な批判を展開している。その核心は、マクロ経済学が研究対象の実際の因果要因を無視し、測定可能な集計値に基づいて仮説を構築している点にある。Ammousの批判は、特定のモデルや仮定に向けられたものではない。それは、経済現象を理解する際の方法論的態度そのもの、すなわち「観測できるもの(経験的領域)の相関関係だけをもって因果的説明とする実証主義的な姿勢」への批判である。

 このAmmousの問題提起は、Roy BhaskarやTony Lawsonによって展開されてきた批判的実在論(Critical Realism)の枠組みと驚くほど整合的である。批判的実在論では、現実を三つの領域に区別する。経験的領域(empirical:観測・測定される現象)、実際的領域(actual:出来事として生起した事象)、そして実在的領域(real:出来事を生み出す生成メカニズムや因果構造)である。

 主流派マクロ経済学は、経験的領域(empirical)、すなわち測定可能な数値に強く依拠する一方で、それらを生み出す実在的領域(real)を十分に考察してこなかった。その結果、観測された集計値が、あたかも因果関係の説明そのものであるかのように扱われてきた。

 Ammousの批判を批判的実在論の言葉に翻訳すれば、主流派経済学は経験的領域(empirical)と実在的領域(real)を区別していない、という指摘になる。Ammous自身は同書第1章において批判的実在論の文献を明示的に参照してはいないが、経済現象の実在するメカニズムに忠実であろうとする姿勢は、結果として批判的実在論と深く共鳴している。

 ここで重要になるのが、オーストリア学派経済学と批判的実在論の関係である。Tony Lawsonは『経済学と実在』において、Friedrich Hayekの主観主義が、なお実証主義の影響から完全には脱していないと批判した。主観的意味理解は重要だが、それだけでは経済現象を生み出す生成メカニズムを十分に説明できない、という指摘である。

 この緊張関係は、どちらか一方が誤っているという単純な対立ではない。主観的な意味や期待を重視するオーストリア学派の洞察と、客観的な因果構造を探究する批判的実在論の枠組みは、ビットコイン・スタンダードを記述するためには、むしろ両立的に必要である。

 両者を止揚的に統合することは、ビットコイン・スタンダード時代の経済学にとって避けられない理論課題である。

 Ammousは『ビットコイン・スタンダード』や『The Fiat Standard』において、人々の時間選好が貨幣制度の影響を大きく受けることに言及している。時間選好とは、実際に見たり触れたりできる経験的(empirical)な存在ではないが、それにより人々がどれくらいの時間軸で物事を考え、行動するかを決定するものである。その点において、出来事を生み出す生成メカニズムであり、実在的(real)な存在である。

 Ammousの議論に従えば、金本位制(Gold Standard)やビットコイン・スタンダードといった貨幣制度を採用する社会では、人々の時間選好は下がり、人々は長期的に物事を考えるようになり、目先の消費よりも資本の蓄積を好む結果として、生産が促進され、通貨の購買力は上がり(物価デフレが生じ)、豊かな社会が実現する。一方で、現代の法定通貨制度(Fiat Standard)を採用する社会では、逆の現象が生じる。すなわち、人々の時間選好は上がり、人々は目先の利益ばかりを追い求め、目先の消費が優先される結果、資本が蓄積されず、生産力は低下し、通貨の購買力は下がり(物価インフレが生じ)、文明は荒廃する。こうした説明において、Ammousは貨幣制度という社会構造が、個々人の時間選好という心理状態に影響することを認めている。つまり、下方因果性を認めていることになる。

 ここで視点を反転させてみよう。構造が人間行動を規定する(下方因果)だけでなく、人が構造を作る側面である。低い時間選好をもち、長期的に物事を考える人々の手によって、ふさわしい社会制度、通貨制度が出現してくると仮定してみよう。つまり、創発である。このような創発は、現実の条件において、成立するのであろうか。Hayekにおいてそれは、市場的な長い時間をかけた制度のルールの進化によって、実現する自生的秩序であるとされていた。

 ビットコインはブロックチェーンであり、電子的な数字の羅列として表現できる、極めて経験的(empirical)な存在である。しかし、ビットコインをこのような経験的(empirical)な存在としてのみ捉えるならば、なぜそれが人々の行動様式や価値観、さらには社会制度にまで影響を及ぼしうるのかを説明することはできない。ブロックの連なりやハッシュ値の計算といった技術的記述だけでは、長期保有(HODL)という行動様式や、短期的な価格変動にもかかわらずネットワークが維持され続けている事実を理解するには不十分である。

 ここで再び、批判的実在論の枠組みが重要になる。ビットコインは確かに経験的(empirical)な存在であるが、それと同時に、人々の期待や行動を媒介する実在的(real)な生成メカニズムを内包している。固定された供給量、恣意的な変更が不可能なルール、将来にわたる予測可能性といった制度的特徴は、人々の時間選好に影響を与え、行動の時間軸を長期化させる。これらは直接観測できるものではないが、結果として観測可能な行動や社会的帰結(半減期によるマイナーの退出や、4年以上のHODLなどの実際的(actual)な存在)を生み出す点で、実在的(real)な存在である。

 この意味において、ビットコインは単なる技術的プロトコルではない。それは、一定のルールに基づいて人間行動を再編成する社会的制度であり、その制度が人々の時間選好に働きかけることで、下方因果的に行動様式を変化させている。Ammousが繰り返し強調する「健全な貨幣が健全な文明を生む」という主張は、道徳的スローガンではなく、社会構造と人間行動の因果関係に関する存在論的主張として理解されるべきである。

 一方で、ビットコインの成立過程を振り返れば、それが最初から完成された制度として上から設計されたわけではないことも明らかである。サトシ・ナカモトによる設計と初期実装、限られた参加者による実験的運用、市場を通じた評価と淘汰。これらの過程は、低い時間選好をもつ一部の人々の行動が積み重なり、結果として一つの制度が立ち上がってきた創発的過程として理解できる。

 従って、ビットコインをめぐる因果関係は一方向的ではない。低い時間選好をもつ人々の行動がビットコインという制度を生み出し、その制度が再び人々の時間選好に影響を与える。この循環的な因果構造は、単純な方法論的個人主義や、静的な制度論では捉えきれない。ここにこそ、批判的実在論が強調する創発と下方因果性を同時に扱う視座が必要となる理由がある。

 Hayekが論じた自生的秩序は、このような制度の進化を理解するための重要な手がかりを与えてくれる。しかしHayekは、その秩序がどのような生成メカニズムを通じて人間行動に影響を及ぼすのかについて、存在論的に十分な説明を与えたとは言い難い。ビットコインという具体的事例を前にすると、制度の創発と制度による行動の規定という二つの側面を、より明示的に結びつけて理解する必要性が浮かび上がる。

 この点において、Saifedean Ammousの議論は、オーストリア学派経済学の枠内にとどまりながらも、批判的実在論的な問題意識へと自然に接近している。彼は哲学的にそれを定式化してはいないが、ビットコインという実在する貨幣制度を前にして、因果構造に忠実であろうとした結果として、である。

 ビットコイン・スタンダード時代の経済学を構築するためには、この交差点を正面から引き受ける必要がある。すなわち、主観的意味理解を重視するオーストリア学派の洞察と、社会構造と生成メカニズムを明示化する批判的実在論の枠組みを、対立ではなく補完関係として捉えることである。ビットコインは、その理論的統合を要請する、極めて特異でありながら現実的な実在なのである。

 以上の考察から明らかなように、ビットコインは単なる新技術でも、投機対象でもない。それは、貨幣制度という社会構造が人間の時間選好や行動様式にいかに作用しうるのかを、具体的かつ実証的に示す歴史的実験である。Saifedean Ammousの議論は、その実在を前にして経済学を再び因果と生成の水準へ引き戻そうとする試みとして理解されるべきであろう。

 ビットコイン・スタンダード時代の経済学とは、既存理論の修正や拡張ではなく、経済をいかなる存在論のもとで記述するのかという問いから始まる。本稿で検討したAmmousと批判的実在論の交差点は、その出発点の一つを示しているにすぎない。しかしその交差点を正面から引き受けることなくして、来るべき貨幣秩序を記述する経済学は成立しえないだろう。

(ビットコイン・スタンダード・インスティチュート)