はじめに
「課税は強盗である(Taxation is theft)」という主張は、リバタリアンが好んで使用するスローガンである。この命題は、現代政治思想の中でも特に挑発的なスローガンの一つであり、普通、しばしば過激なレトリックとして片付けられる。しかし、リバタリアンは、これを単なるレトリックとしてではなく、国家権力の正当性に関する体系的な哲学的議論として提示しているのだ(もちろん、我々リバタリアンは国家権力を不当な暴力だと非難する)。
本稿では、リバタリアンの立場に立ちながら、「課税は強盗である」という命題の論理構造を整理する。まず、リバタリアニズムの基本原理を確認する。その上で課税批判の根拠を論じる。次に、典型的な反論を検討し、それに対するリバタリアン側の再反論を提示する。
リバタリアニズムの基本原理
①自己所有権
リバタリアニズムの中心概念は「自己所有権(self-ownership)」である。簡単に言えば、「自らの身体は自分自身のものである」というテーゼである(狭義の自己所有権)。
当然、自身の身体の動きである労働も自身のものであり、自身が生み出した財産も自身のものである(広義の自己所有権)。なぜなら、財産が自身に帰属しないとしたら、自身が労働に費やした時間分、自身の身体を所有していないことになってしまうからである。
つまり、各人は、自己の身体・労働・時間を所有しており、それゆえ労働の成果物も含めて自由に処分する道徳的権利を持つ。
自己所有権の観点から見ると、国家による課税は重大な問題を含む。なぜなら、国家が個人の所得を強制的に徴収することは、個人の労働成果に対して国家が部分的所有権を主張することであり、自己所有権の侵害だからである。
②非侵害原則
リバタリアニズムでは「非侵害原則(Non-Aggression Principle)」も重要である。これは、他者の身体や財産に対して先制的暴力を用いてはならない、という原則である。ただし、暴力の行使は、権利侵害への対抗や自衛などの例外的な場合には許される。
ここで問題となるのが課税である。税金は名目的には法的義務であるが、最終的には国家暴力によって執行される。例えば、納税拒否に対しては罰金、財産差し押さえ、場合によっては拘束が行われる。つまり、課税とは本質的には「従わなければ暴力を行使する」という制度であり、その点で強盗と類似しているのである。
課税批判の根拠
①強盗の定義との比較
通常、強盗とは「本人の同意なく、暴力または暴力の威嚇によって財産を奪う行為」である。では税金はどうか。国家は「税を払え」と命じる。払わなければ罰金、差し押さえ、最終的には逮捕や拘束が待っている。そう、課税は強盗の定義に当てはまるのである。
もし私が次のように要求した場合、それは「強盗」とみなされるだろう。「あなたの所得の一部を私に渡せ。拒否すれば武力を行使する。」しかし国家が同様の行為を行うと、それは「徴税」と呼ばれる。両者の違いは形式的に過ぎず、本質的に徴税と強盗は同じ行為なのである。
②課税と奴隷労働
もし、誰かが強制労働させられ労働成果を取り上げられるのであれば、それは奴隷労働と呼ばれる。そして、課税はあなたの労働成果を同意なく徴収する。これは、国家のために働く時間を強制されたのと同義である。たとえば、ある人が一年のうち6か月分の労働成果を税として徴収されるなら、その6か月間について国家がその人の労働時間を強制的に利用していることになる(なんと!国民負担率がほぼ50%になる国家があるらしい!)。
もし国家が、「毎週日曜日は国家のために働け」と命じたら、多くの人は強制労働だと感じるだろう。すなわち、本人の同意なしに労働成果を収奪するという点において、課税は部分的な労働支配を含んでいるのである。
反論と再反論
反論①:社会契約論
課税擁護論において頻繁に用いられるのが「社会契約論」である。これは、「あなたは国家サービスを受けているのだから、その対価として税を払う義務がある」という考え方である。しかし、この「契約」の成立条件には重大な疑問がある。一般に契約とは、自由意思による同意に基づかなければならない。しかし多くの人々は、生まれた瞬間から国家制度の内部に組み込まれており、税制に明示的同意を与えたわけではない。たとえば、レストランで食事を注文すれば支払い義務が生じる。しかし、勝手に料理を置かれて「食べなくても料金を払え」と言われたら、それは契約ではない。
国家についても同様である。多くの人は、生まれた瞬間に特定国家の法制度に組み込まれる。税制に同意した覚えはない。契約書に署名したわけでもない。拒否権もほぼ存在しない。
したがって、「国家に住んでいる」という事実のみから納税への同意を推定するのは不当である。
反論②「嫌なら出ていけ」論
社会契約論の補強として、「国家が嫌なら国外へ移住すればよい」という主張がある。しかしリバタリアンは、これを真の自由契約とは認めない。なぜなら、現実には移住には極めて高い経済的・社会的コストが伴うからである。
また、「出ていく自由がある」ことは、「契約への自由な同意があった」ことを意味しない。暴力団が地域を支配し、「嫌なら引っ越せ」と言ったとしても、その支配が正当化されるわけではない。
反論③民主的に決められている論
課税擁護論では、「民主的に決定された税制だから正当である」という主張もある。つまり、「強盗は私人による犯罪だが、課税は民主的手続きに基づく合法行為だ」というものだ。しかし、民主主義それ自体は道徳的正当性を保証しない。たとえば、ナチス(多数派)がユダヤ人(少数派)を差別する法律を決定した場合、それは民主的手続きには従っているが、依然として権利侵害である可能性がある。歴史上、奴隷制や人種差別制度は合法だった時代が存在した。しかしそれらは現在では重大な不正義とみなされている。10人のうち6人が「残り4人の財産を没収しよう」と決議した場合、それは民主的ではある。しかし、それは必ずしも正当だとは限らない。
したがって、多数決は個人権を無制限に侵害する根拠にはなりえない。「税は法律で定められているから正当である」という論法は、倫理的根拠として不十分である。
反論④公共財なしでは社会が成り立たない論
課税擁護論の代表的主張は、公共財供給の必要性である。警察、消防、道路、軍事などは市場だけでは十分供給されず、税による強制徴収が不可欠だという考えである。しかし、「必要性」と「正当性」は区別されるべきである。たとえば、ある独身の人間が恋人を死ぬほど必要としているとして、その人が他人に「自分の恋人になれ」と強制することは正当だろうか?こうした制度は、社会の再生産のために必要とされるかもしれないが、リバタリアンに限らず多くの人が拒否するだろう。
ある制度が社会的に有益であるとしても、それが強制を正当化するとは限らないのである。さらに、多くの公共サービスは市場メカニズムで代替可能だと論じる。有料道路、民間警備、保険ベースの安全保障など、実際に民間供給の事例は存在する。「国家しか提供できない」という前提自体が疑わしいのである。
反論⑤富裕層は社会に還元すべきである論
もう一つの典型的主張は、「成功者は社会インフラの恩恵を受けているのだから、高い税を払うべきだ」というものである。
リバタリアンは、成功が社会的条件に依存していることは認める。しかしそれは、他者が個人財産への請求権を持つことを意味しないと考える。たとえば、画家が文化の恩恵を受けて成功したとしても、他人がその絵を勝手に持ち去ってよい理由にはならない。
社会の恩恵を受けていることを理由に財産権を制限できるなら、国家は際限なく徴税権を拡大できる。財産権の安定性を守るためには、「社会への借り」という曖昧な概念ではなく、明確な所有権原理が必要である。
反論⑥課税と強盗は違う論
多くの人は、「強盗は私人による犯罪であり、課税は公共目的のための制度である」と主張する。しかし、この違いは本質的ではなく形式的だと考える。
確かに国家は公共目的を掲げる。しかし、手段として本人の同意なき財産徴収と暴力的執行を用いる点では、強盗と構造的類似性が存在する。また、「公共目的」の名の下であれば権利侵害が正当化されるという発想は危険であり、国家権力の肥大化を招く可能性がある。
反論⑦課税は必要悪論
穏健なリバタリアンも現実問題として国家機能の必要性を完全には否定しない場合がある(最小国主義・古典的自由主義)。特に「夜警国家」を支持する最小国家主義は、警察・裁判・国防など最低限の国家機能を認める。しかしそれでも彼らは、現代国家の課税規模は正当化不能だと考える。現代政府は単なる治安維持を超え、所得再分配、補助金、産業保護、企業救済、監視機構など巨大な機能を持つ。その財源は強制徴収である。つまり国家は、人々から強制的に奪った資金を、政治的判断で再配分している。リバタリアンから見ると、これは「合法化された収奪システム」に近い。
結論
「課税は強盗である」という命題は、単なる政治的挑発ではなく、国家権力の正当性に対する根源的批判である。なぜ国家だけが、私人には許されない行為を許されるのか?「国家だから」という答えでは循環論法になる。もし個人がやれば犯罪なのに、集団化し「政府」と名乗れば正当化されるなら、それは本当に倫理的なのか?リバタリアニズムは、自己所有権・非侵害原則を重視する立場から、課税を本人の同意なき強制徴収、つまり強盗として捉える。そして、民主主義や公共利益という概念によっても、個人権侵害は完全には正当化されないと主張する。
(中条やばみ)
