国旗損壊罪についてのリバタリアン的観点

 現在、主に自民党を中心に国旗損壊罪の制定が進みつつある。本稿の主目的はリバタリアン思想から見た同法案はいかなるものであるかを紹介することである。そのためにも、まずリバタリアン思想と表現の自由について概説した後に、同法案の反リバタリアン性を詳説しよう。

1.リバタリアン思想と表現の自由

 最初に確認しておくが、リバタリアン思想において、何かしらの権原に依拠せずに独立する表現の自由はなく、自己所有権に依拠した自由があるまでである。「リバタリアンなのに、表現の自由がないとはどういうことか?」と考える読者も多いだろうが、これはリバタリアン思想に特有のものというよりも、表現の自由と称される考えの不明瞭さゆえの事象である。一般に表現の自由といえば、発言を妨げられないとか、発言内容を指定されないとか、発言しなくてもよい裁量が認められているとか、そういったものが挙げられるだろう。一例としてここでは発言を妨げられないとはどういった状態かを考えてみよう。物理的に身体が統制されていない状態、「常識」によって統制されていない状態、あるいは、国家の法律によって統制されていない状態が考えられる。一つ目から考えよう。物理的に身体が統制されていない状態は、羽交い絞めにされていないとか、銃のような何らかの有形力によって脅されていないといった状態が考えられる。これらは端的に自己所有権(1)の侵害であり、表現の自由概念を使わずとも不正であるとクレーム可能である。また、例えば、他人ないし共有の敷地で表現活動をする人――共有の土地の場合はその共有地に定めされている規則に反しているとしよう――がいたとして、表現の自由ゆえにその土地の持ち主やその他の共有人は表現活動について無条件的に認められるべきだろうか。あるいは、そのような行為は認められず、何らかの有形力によって表現者を制止ないし排除するのは正当なことだろうか。自己所有権に依拠する場合、そのような行為は(手段が過剰ではない限り)正当であろう。他人の土地であればその土地の所有権者(※個人とは限らず集団の可能性もある)に対する自己所有権の侵害であり、あらかじめ規則が定められた共有地の場合においては、共有地の構成員すべてに対する自己所有権侵害であるといえる。一方で、自己所有権をはじめとする基底的な諸権利に依拠しない場合、状況は不明瞭である。もし表現活動を最優先とするのであればいついかなる時も表現活動が認められるべきだが、これは生活上の困難を伴う。一例としては、誰かが寝室で寝ようとするときも表現者に寝室を明け渡さなければならないからである。より政治的な問題として、演説大会があったとして誰が何をどの程度演説する時間と場所を分配するのだろうか。そして、やめさせるよう有形力を行使することは定義上できず、多くの人間は受忍できないだろう。これは基底なき表現の自由の限界である。

 次に、「常識」の例を考えよう。「非常識」な表現活動――全裸で道路を歩く、夜通し大きな音を轟かせる、何かしらの意匠を貶す等――をする人がいたとして、リバタリアンはどう対応するか。基本的には、その土地であらかじめ定められた規則に依拠し、何も定められていない場合、身体に危害を及ぼすような自己所有権の侵害――鼓膜が裂けるほどの音や振動、高濃度放射線の散布等――を除き、その都度クレーム者と交渉するしかない。なお、後述するが、国家は正当な財産権を持たないため、国家支配下の土地はこれに当てはまらない。具体例として、日本国の現行法においては私有地で全裸で歩いている場合、私有地外の他者から発見された場合に処罰されうるが、これは明確な自己所有権の侵害例といえるだろう。もちろん、全裸で歩くことを禁じる(自己所有権を侵害していない)共有地の規則に同意している場合は別だが。話を戻すと、世界単位で統一的な規制・基準が存在しないのは不明瞭かつ非効率と考える人もいるだろうが、世界各地で画一的な規制を実施する必要はなく、ローカライズの余地を残す点がリバタリアンな法思想・法運用の魅力だろう。さて、基底なき表現の自由はどう応えるだろうか。おそらく、「非常識」な表現活動全般を無条件に認めるだろう。ただし、これが全人類にとって有益かどうかは分からない。リバタリアン社会であれ国家主義社会であれ、あらゆる表現活動すべてに好意的な人はおそらく存在しない。要はあらゆる表現活動をすべての地域で行うと、不快が絶えない社会に成りうるのだ――後で少し触れるが、何が不快かはひとそれぞれである。これもまた、基底なき表現の自由の限界である。

 最後に国家の法律による規制を考えよう。リバタリアンにとって国家は課税という同意に基づかない手段によって財を強制的に調達・占有しており、正当な財産権を有さない犯罪者集団である。犯罪者集団の諸行為に正当性は付与されないため、国家の法律による規制はすべて不正である。以上。さて、基底なき表現の自由はどうだろうか。本当に基底なき場合は国家の法律が何であれ最大限の表現活動をすべきだ。しかし、それは国家との闘争を意味する――厳密には、反国家的かつリバタリアン的な異議申立者も闘争相手に含まれうるだろう。筋金入りの表現者であれば諸規則を無視するだろうが、多くの場合国家の法律には武力上無力であることが多いし、反国家的な人との諍いを減らしたい人が多いだろうから、この方針が実際に貫徹されるとは到底思えない。単に表現の自由だけで解決される問題ではなく、表現の自由以外の権利観念がなければ、表現活動の敵は定まらない。

 以上のように、基底なき表現の自由では限界があることは明らかであるし、社会を成り立たせる観点からも自己所有権に依拠した方が良く、明確に国家に対して「No!」を突きつけられるのもリバタリアンの魅力だ。また、結果的に自己所有権観に依拠した社会の方が表現の自由が守られるだろう。というのも、上記の例によっても明らかなように、リバタリアン社会は各人の表現活動を各人の同意によって成り立たせやすい。言い換えると、好きな表現で集まり、嫌いな表現からは逃げやすいのだ。結論的には、リバタリアンは表現の自由に特段コミットしないが、表現の自由を守るような社会をつくりやすい。そして、国家の表現規制活動に異議を唱えやすい。

(1)
自己所有権は、自分自身の身体は自分の所有物であり、いわれのない身体への暴力や統制を行使されない身体所有権と、自らの労働を混入させた成果物に対する権利である労働所有権から成る。ただし、労働所有権を認めないリバタリアンや、自己所有権概念そのものを認めないリバタリアンもいる。なお、それらを権利として認めないとしても、「自分の身体は自分のもの」といった直観に同意するリバタリアンは多い。

2.国旗損壊罪に抗するリバタリアン思想

 ここでは、国旗損壊罪の詳細を鑑みた後に、その反リバタリアン性を詳述しよう。

 現行の案によると国旗損壊罪の骨子は以下の通りである。

 (定義)
第一条 この法律において「国旗」とは、国旗及び国歌に関する法律(平成十一年法律第百二十七号)に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物をいう。

 (罰則等)
第二条 人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する
2 前項の方法に該当するかどうかの判断は、行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案して行うものとする。

 (適用上の注意)
第三条 この法律の適用に当たっては、表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。

本稿では「お子様ランチの旗が国旗に該当するかどうか」のような仔細な事例については取り扱わず、国旗損壊罪の骨子と性質に着目することを断っておく。よって、第一条についてはここでは取り扱わない。

 第二条が国旗損壊罪の中心といえる部分である。「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損」する行為とは一体どういうことだろうか。「不快又は嫌悪の情」を催させたと判断する者は当然に、国家権力である。現場の実態としては、政治家が暗躍し、警察官が逮捕し、裁判所(長)が刑期を命じるだろう。次に、何が「不快又は嫌悪の情」に該当するのだろうか。「行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案して行う」と記載があるものの、事実上何も書いていないに等しい。行為の外形、周囲の状況その他の客観的な事情を総合的に勘案することは、裁判や法令解釈ではよくあることで、国旗損壊に特有の事情ではないからだ。話を戻すと、やはり実態としては、国家権力が該当すると思えば該当するのだろう。言い訳的に第三条で「この法律の適用に当たっては、表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」と記載があるものの、そもそも、表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利」にコミットしているのであれば、このような明確な悪法――国家主義の規則・慣習に基づいたとしても悪辣な法律――が立法されることもないだろうから、ガラクタ同然の留意文とみなしてよい。さらに質の悪いことに、罰則については二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金と記載がある。不快をもたらしただけで2年以下の拘禁刑は(国家の法がすべて悪だったとしても)あまりにも重すぎる。これ以上悪文を分析しても仕方がないので分析結果の開陳に移ると、あまりにも国家権力の裁量が大きく、国家権力が自身の意向に従わない者を弾圧するだけの法律といえるだろう。

 さて、今度はリバタリアン思想から見た評価を下そう。国旗損壊罪の国旗は個人の所有物にも及ぶとされており、明確な反リバタリアン思想といえる。そもそも、個人の所有物は他者の自己所有権を侵害するか、あらかじめ同意した他者との約束事に反さない限り、どのように処分しようが個人の勝手である。これは、国家主義社会においてもある程度容認されているルールといえるため、国家主義社会としても前近代的である。

 次に、リバタリアンであれば「不快又は嫌悪の情」を催すからといって、権利侵害として制裁することは不正だといえる。理由は単純で、自己所有権に反していないからだ。もし適用されるとすれば、あらかじめ「不快又は嫌悪の情」を催さないと誰かと契約したときのみだろう――そうであったとしても、不快や嫌悪といった感情を規則として制定することは困難を伴うだろうが。ただし、リバタリアン社会にも正義/不正義に該当しない善/悪感情は各人にあるのは当然想定されるし、善悪の判断によって他者との交換をするかしないかを決めるだろうから、字義通り「何もしてもいい」とはならないだろう。具体的にいえば、他人に嫌われることを続けている人は、交換の対象から次第に外れていき、孤独になりやすいということである。ただ、そのような嫌われ者の孤独者が存在すること自体は不正ではない。

 最後に、日本国憲法が権力者の足枷としてまるで機能しないことを挙げよう。憲法論一般については幾人もの憲法学者よりも、19世紀アメリカ合衆国に副大統領として権力者の側にいたジョン・カルフーンの憲法観を紹介することの方が実益が大きいだろう。カルフーンの憲法観は至ってシンプルであり、多数派(与党)は憲法を拡大解釈し、少数派(野党)は厳格に解釈するというものだ(2)。日本においては、野党系の革新派が護憲政党と化しているのは奇天烈とされているが、カルフーンの考えによればそれは自然なことであるといえる。また、カルフーン憲法論によれば、与党側が憲法を拡大解釈する以上、権力者を制約するというのは無理があることになるだろう。「日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないようにしなければならない」を判断するのが自民党自身であること踏まえると、憲法による国旗損壊罪の制約は、護憲派野党のクレームを除き、基本的に機能しないと考えた方がよい。なお事実上、最高裁判所の裁判長は内閣が任命するため、裁判所が政治から独立した機関と考えるのは無理がある。

 リバタリアンとしての結論を述べよう。国旗損壊罪は明確に自己所有権を侵害し、自身にとって都合の悪い人間を弾圧し、憲法による制約も期待できない。付け加えると、国家主義者自身の規則性をも掘り崩す法案だろう。このような国家主義社会を助長するような法案は即時廃案となるべきだし、そのように各リバタリアンは行動しなければならないだろう。

(2)
Calhoun, John C. (1851), A Disquisition on Government, ed. By Richard K. Crallé, Columbia, South Carolina, printed by A. S. Johnston. 中谷義和訳(1977)『政治論』41-44頁、未来社。

付論:外国国章損壊罪

 国旗損壊罪と併せて語られることの多い外国国章損壊罪について簡単に言及しておく。

 外国国章損壊罪は、侮辱を目的とした外国の国旗・国章の損壊・除去・汚損が処罰の対象となっているが、対象は個人の所有物ではなく、外国の公的機関が掲揚しているものに限られるとされる。厳密にいえば、国旗損壊罪と外国国章損壊罪はまったくの別物だが、いずれも反リバタリアン的性質を持つ点のみは一致している。というのも、あらゆる国家は正当な財産権を持たないため、外国の公的機関が掲揚する国旗を損壊したとしても、それが個人の所有物ではなく国家の占有物であった場合、自己所有権の侵害とは言い難く、法的処罰を行うのは不正だからだ。

 国旗損壊罪も外国国章損壊罪も同様に廃止されるべきものだが、もっといえば、国家そのものを廃絶することがリバタリアン社会への一歩となる。目先の法案や法律に囚われるのではなく、大きな視座がリバタリアンには求められている。

(前川範行)