民主主義国家が自由の侵害者であることに疑いの余地はない。あらゆる国家は税と称して人々の財産を強制的に奪い取り、規制と称して手錠と牢獄(場合によっては縄)に支えられた決まりをつくる。程度の差こそあれいかなる国家もこのような犯罪を組織的に行っているのであって、民主主義国家も決して例外ではない。
一方で、民主主義者が(不完全な)自由を擁護することや、民主化運動のほとんどが自由化運動でもある、というのもまた事実である。したがって、民主主義とリバタリアニズムは両立しない一方、純粋に敵対的な関係にあるわけでもない。では民主主義者はなぜ自由の侵害と自由の擁護を同時に主張するのだろうか?
この問いに答えるには、民主主義が自由に与える影響と、自由が民主主義に与える影響に分けて整理するのが良いだろう。民主主義が自由に与える影響は前述の通りマイナスである。むき出しの権威主義国家との相対評価ではプラスになるだろうが、絶対評価でプラスになることはありえない。一方で、自由が民主主義に与える影響はプラスである。自由に考え、自由に行動できる社会でなければ、「人民の自由な意志によって正当化された強制力」という彼らの神話は成り立たないのだ。
互いにプラスの関係を味方、互いにマイナスの関係を敵と呼ぶならば、この関係は寄生あるいは捕食-被食関係と呼ぶのがふさわしい。キツネ(民主主義)とウサギ(自由)の関係である。キツネはウサギを殺して生きるが、ウサギがいなくなったらキツネは生きられない。ウサギにとってキツネは殺戮者であり天敵である一方、キツネはウサギを殺すことではなく肉を食べることが目的なのである。キツネからすればウサギは多いほうがいい。したがって知能の高いキツネは積極的にウサギを保護し増やそうとするだろう。
以上のたとえはリバタリアンにとって何を意味するのだろうか。これが民主主義の非倫理性を示すためのたとえでないことは最初に断っておく。そもそも動物のキツネにウサギを殺した罪があるとするのは無理があるだろう。自由という侵害されてはならないものをウサギの位置に置いたからキツネに相当するものが悪者になっているだけで、たとえは関係性をわかりやすくするためのものにすぎない。このたとえが明らかにするのは、リバタリアンが民主主義に対してとるべき精神的態度である。民主主義国家はキツネに相当し、自由というウサギを減らすが、民主主義運動はキツネを生存させる試みに相当し、これはウサギを増やすのである。したがって、民主主義運動が民主主義国家を目指しているという理由でリバタリアンがそれを攻撃するのは合理的でない。動機はどうあれ、彼らはウサギを育てているのだ。一方で、民主主義国家を支持したり、妥協したりするのもまた愚かなことである。彼らがウサギを育てるのは、キツネのエサにするためなのだから。
(柏葉うたす)
