コンキンとのインタビュー1

 本稿は、カナダ・アメリカのリバタリアンであるサミュエル・エドワード・コンキン Samuel Edward Konkin III (通称SEK3)のインタビュー記事”Interview with Samuel Edward Konkin” の翻訳である。

 コンキンは、はっきり言って、日本では全く知られていない。私が修士論文で取り扱った以外には、巷のリバタリアンから学術に至るまで、言及されることはなかった。しかし、コンキンは歴史のごみ箱に放棄されるべき人ではない。彼は、アゴリズム Agorism の提唱者であり、最小国家主義 Minarachism の造語を作った。さらに、マレー・ロスバードの左派的側面を深化させ、自由市場アナキズム free market anarchism の論者の一人となった。

 なぜコンキンが、特に日本で、着目されないのか。理由は幾多に及ぶが、最たるものとして、日本のアカデミズムのリバタリアン研究が法哲学ないし政治理論一辺倒であり、思想(史)からの言及がないことが挙げられるだろう。そのような学問領域では、思想史的側面は軽視・無視され、思想から抽出された理論的側面が重視される。コンキンをはじめ、リバタリアンは大学ではなく、運動にルーツがあり、かつ、運動がメインストリームである。例えば le libertair つまり libertarian という政治的概念の提唱者であるジョセフ・デジャックは活動家だった。世界初とされる右派リバタリアン系シンクタンクの創設者のレオナルド・リードは実業家だ。アイン・ランドは在野の思想家・小説家だ。アカデミズムの人間であるロバート・ノージックは若いころアメリカ社会党に属していたし、ロスバードも大学教員ではあったが幾何かのシンクタンクの創設に関与した。当然、今述べた人々以外の無名のリバタリアン活動家が運動とリバタリアニズムを形成した。コンキンもその一人である。

 このインタビューは、コンキンに対して、リバタリアン思想や運動を尋ねるものである。21世紀、しかも日本語圏に生きる我々にとって、まさに「失われた歴史」であり、思想や運動の際に有用だと確信し、翻訳するに至った。

 [ ] と(数字)は訳者(前川)による注釈である。

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[まえがき]

 New Libertarian Manifesto の著者であるコンキンは自身のイデオロギーを語るために「アゴリズム」の語を作り出した。無政府資本主義と大変似通っているにもかかわらず、無政府資本主義とは異なり、知的財産権を否定した。アゴリズムは明示的に投票と議会戦略に反対し、労働者自身が職場で働くような経営体の所有者である経済構造を有する大多数の個人主義的アナキストと理想を共有した。

 しかしながら、私は「自由市場アナキズム」としてのコンキンの「リバタリアニズム」の定義に異を唱えたい。私が思うに、幾何かの保守主義者と、すべてのアナキストは基本的な価値として自由を信じており、それゆえにリバタリアンである。

ダニエル・バートン Daniel Burton (通称:Melchizedek, 茨の主 Lord of Brambles )

反著作権 2002

1969年から続く享楽と利益のための国家の打ちのめし

リバタリアンの象徴、サミュエル・エドワード・コンキン Samuel Edward Konkin III (通称SEK3)

インタビュアー:_wlo:dek と michal

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 あなたはSEK3を知らず、自分自身をリバタリアンだと思っていない?じゃあ、実のところ、残念だけど、サムについての紹介が必要だね。彼は当時の1969年世代のリバタリアンにはよく知られているが、初期の運動に参加できなかった人たちには、ほとんど知られていない。ある程度、このことは彼にも責任がある。多くの若手の活動家がリバタリアニズムに触れた1990年代初頭、サムはリバタリアン運動から少し離れていた。しかし、今[2002年]は復帰して、生き生きとしている。

 では、サミュエル・E.・コンキン3世って誰か?John Guilt とは何か?その質問の解答はこの本全体にわたる…。オリジナルのリバタリアンであるサムに関して言えば、セントルイスの戦いの街角で大文字のL[リバタリアニズム]を獲得した。「アゴリスト・クォータリー Agorist Quartely 」、「ニュー・アイショレーショニスト New Isolationist 」、「フレファンジン Frefanzine 」等の編集者、その他多くのリバタリアン、アゴリズム、アナキズム、そして反干渉主義の著作があり、1970年に刊行された「ニュー・リバタリアン」の作者として最もよく知られ、我々の運動の、「イン・リーチ」誌を先導したとして、ミスター・リバタリアン(マレー・ロスバード)に称賛された。1980年に、彼は New Libertarian Manifesto で大波を起こし、「一貫性、客観性、方法において尊敬する主張」とロバート・ルフェーブル Robert LeFevre に称賛された…。リバタリアニズムを促進するために、彼はリバタリアン・レフト(1)の、アゴリスト研究所 Agorits Institute と、カール・ヘス・クラブ Karl Hess Club の運動を共同で立ち上げた。彼は学術的な会議、講義、セミナー、会合を組織した。当然、彼は、「アメリカン・ゾーン」のL. Neil Smith 、「キング・オフ・ハイ・フロンティア」の Victor Koman 、「アロングサイド・ナイト」のJ. Neil Schulman によって創られた機能的なリバタリアン・ヒーローのロール・モデルになった。

 オーケー、今あなたは氷山の一角を見たことになる。これ以上私を止めないでくれ。がんばれ。

必要不可欠な背景

Q:インタビューを始める前に、議論によく出てきて、多くの人が同義語だと考える用語の定義についてお聞きしたいです。あなたにとってリバタリアニズムとは何ですか?

SEK3:リバタリアンは自由市場アナキストの別用語だね。ただ、しばしばミナキスト(2)のような、より穏健な旅人を含むけどね。[リバタリアンの]用語は、もともと、(我々にとって悪いイメージばかりではないが)決定論を超えた自由意志を信じる人々を意味する信仰と関係のある、自由思想家が使っていて、後に、19世紀のヨーロッパのアナキストの婉曲語(3)になった。1940年代に、レオナルド・リード Leonard Read によって蘇ったんだ。穏健左翼の国家主義者になったリベラル運動の残滓に加入するのを拒み、ニュー・ディールのようなファシストに近似のリベラルの類に反するアメリカのオールド・ライトの連合に多くが加入した古典的リベラルたちを意味する用語としてね。アイゼンハワーの[大統領]選挙とロバート・タフト Robert Taft の死を機に、オールド・ライト連合は瓦解した。マレー・ロスバードが(外交政策において非介入主義的な)孤立主義的なリバタリアンを新左翼との連合に呼び集めた一方で、バックレー(4)は国家に肯定的な保守主義者を彼の新右翼(5)から引き抜いたんだ。ニューヨークに拠点のあったロスバードは1950年にアナキストになり、結果的に断固たる主張を定義づけた。ロバート・ルフェーブルはアメリカ西海岸で同じく[アナキストに]なったんだ。

Q:不幸にも、多くの人はリバタリアニズムとリバタリアン党(6)を関連付けます。幾人かは、リバタリアニズムを定義した最初の組織だと信じています。率直にどうですか?

SEK3:1969年に、SDS[民主社会を求める学生団体(7)]と自由を求める青年アメリカ人(8)の両者がそれぞれのやり方について分裂していた。YAFからの「右派」リバタリアンは、SDSからの自由市場アナキストに加入したんだ。マレー・ロスバードとカール・ヘスが招いた、コロンブス・デー(9)の週末にニューヨークでの歴史的会議でね。1970年の2月に、ロバート・ルフェーブル(10)に従事する幾人かのアナキストがロサンゼルスのカリフォルニア大学で最大級の会議を開いた。その会議にはヘス、SDSの前代表のカール・オグレスビー Carl Oglesby と、それまでの運動を代表するビッグネームが参加した。私も以前のセントルイスのYAF大会と同じく、両方に出席したんだ。

 ロサンゼルスの会議後、リバタリアン連合がアメリカ中で生まれた。私は個人的に、1970年にウィスコンシンで5つ、そして1971から1973年に、ニューヨーク州南部(ニューヨーク市とその近郊)で12個組織した。リバタリアン党の初めての「実際の」キャンペーンは、1973年の(ニューヨーク市の)市長選挙[立候補の]フラン・ヤングスティン Fran Youngstein だった。そして、(ヨーロッパ人が非議会主義者と呼称するだろう)非政治的リバタリアンが、(私が政党主義者 partyarchs (11)と名付けた)政治進出を受け入れるアナキストと共に運動した唯一のキャンペーンだった。

 そのころまでには、1970年にリバタリアン運動が「マレーの居室」(と、後にランパート大学となるルフェーブルの自由教室)から、数千人が生まれ、1971年には数万人に、1972年には(イギリスとオーストラリアのようないくつかの海外で)数十万人が生まれた。運動の急激な発達はリバタリアン党の注目が集まると横ばいになった。

Q:極少数の活動家のジョークがリバタリアン党設立のきっかけとなったのは本当ですか?

SEK:1960年代のウェストウッド・ヴィレッジ・スクエアの編集者だったエド・バトラー Ed Butler は1970年にリバタリアンになった。非政治的リバタリアンである(ガランボス主義者(12)の)ガブリエル・アギュラー Gabriel Aguilar と、(ルフェーブル主義者の)クリス・シェーファー Chris Shaefer とともに、彼らは1年に渡った選挙を楽しむためにカリフォルニアで「リバタリアン党」の名前を登録したんだ。デイヴィッド・ノーランがまじめに1971年のクリスマス大会でリバタリアン党の創設を発表するよりも前にね。

 ちなみに、マレー・ロスバードとその他大勢はホスパースとネイサンのキャンペーン(13)の間、ノーランの党へ合流するのを拒否したんだ。ニクソン大統領の選挙人のロジャー・マクブライド Roger MacBride がフェンスを飛び越えて(合衆国で大統領を実際に決定する)選挙人団でニクソンの代わりにホスパースに投票しなければ、跡形もなく消えていただろうね。1972年にニューヨークで、珍しい下院のリバタリアン党の候補者だったウォルター・ブロック Walter Block は、「議会解散のための反対声明(14)」と名付けたバンパーステッカー[※自動車に貼るステッカー]を作って、州下院にユーモアあるキャンペーンを行った。

Q:フランスが[ナチスドイツの]占領下だったとき、ドイツ人と協力した女性の権力者の髪の毛を剃る慣習があった。リバタリアン党以外のどの「リバタリアン」が、同じ行いを受けるべきだと考えていますか?

SEK;まじめな話、私はマキ―[※地下運動組織]やレジスタンスとしてのリバタリアンのメタファーが好きだね。でも、2つの大きな違いがあるし、敵をどう取り扱うのかということではないと思う。1つ目、我々は敵の経済に寄生するのではなく、よりよい経済を「陰に」つくるんだ。2つ目、我々は(占拠する実力である)国家から(少なくとも現在は)公に議論し、募集することを許されている。後者のケースは、国家が我々を深刻な脅威とみなした瞬間に消滅すると思う。

Q:幾何かの人々はアイン・ランド(15)の小説を読んだ後にリバタリアンになりました。ハインライン(16)やロスバードの本で[リバタリアンに]転向した人もいました。あなたがリバタリアンになったきっかけは?

SEK:『月は無慈悲な夜の女王』でのハインラインははじめに概念(「合理的アナキスト」)を私に与えた。ベルナルド・ド・ラ・パズ(17)が現実の人々(ロバート・ルフェーブル)に依拠していたと私が知ったとき、私は本当にそれを摂取したんだ。私は、フランク・マイヤー(1970年に死んだが、「融合主義」と呼ばれる保守主義者とリバタリアンの統合を試みた)と、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1973年に93歳でなくなるまで自身をリベラルと自負していた。私は彼の死ぬ3年前に出会った)を経て、カナダ、そしてアメリカの右翼に進んだ。両者ともに異なる方法でロスバードにつながったが、彼は過激な孤立主義のために、当時のベトナム戦争の時代に、親共産主義者として中傷されていた。最後は、セントルイスのYAF大会で、反共的自由市場アナーキストとして知られたダナ・ローラバッカー(18)にもたらされた。彼はカリスマ的学生運動家で、ロバート・ルフェーブルによってラディカルになった。彼は、キャンパスからキャンパスへと楽器と民謡とともに、あちこちを旅したときの小さな発見を彼に与え、YAFの支部をリバタリアン連合とSIL(19)の支部に転向させた。残念ながら、後に彼はリバタリアン党ではないが、政治家に落ちぶれる。リバタリアンの大富豪チャールズ・コーク(20)は、彼を2回に及んで失敗した共和党予備選で支援し、ロールバッカーがロナルド・レーガンのスピーチライターとして過ごした後に、彼は[カリフォルニア州の]オレンジ郡から合衆国下院の確実な議席を手に入れた。彼は今日も未だに議員であり、年長者となっている。彼は未だにリバタリアンであることに変わりはなく、間違いなくロン・ポール(21)が保持するよりも争点は少ない。

 ただ、1969年から1971年に、ダナ・ロールバッカーは最も成功し、最も愛されたリバタリアン活動家だったが、私の考えでは、彼抜きに運動はなかっただろう。そして、彼は議会のキャンペーンで一線を越えるまで、私の親しい友人だった。

Q:ところで、ロン・ポールについてどうお考えですか?選挙政治に反対する主意主義的主張に直面する多くの政党政支持者[※つまり、反議会主義かつ自由意志を重んじる者に対する、議会主義派の意]は、彼について指摘し、以下のように尋ねます。「ロンを見ろ、彼がリバタリアン運動を破壊すると本気で思っているのかい?」どのように回答しますか?

SEK:多くの点でロン・ポールは違う時代にいた。彼が最も親密なイデオロギー的先祖は、1960年代から1970年代にかけてアイオワ州選出の下院議員のグロス H.R. Gross で、ロスバードのお気に入りの、1950年代にネブラスカ州の下院議員だったハワード・バフェット Howard Buffett だ。1800年代初期のトーマス・ジェファーソンの共和党と分裂したオリジナルの、ヴァージニア州ロアノークのジョン・ランドルフ John Randolph (22)まで遡ることができる。435人のアメリカ下院はどの時代もあることに関して許容することができたとされる。もしかすると、宮廷の道化師かもしないし、下院が理論上期待されることのただ一つの例かもしれない。これら2つは決して同じ時代に存在しないことに注意しよう。また、それらが二大政党の寡占の範囲内で操作すべきということもだ。そして、最後に、子ブッシュの(誰に対する?どの敵国?)宣戦布告の欺きを容認する合衆国下院の決議案に反対する投票で、ポールはアフリカ系アメリカ人で左翼改革的民主党員のバーバラ・リー Barbara Lee (23)に取り入る根性はない。彼がリーよりも市民的・経済的自由の一貫した擁護者であったにもかかわらずだ。

 最後に、ポールは「共和党コーカス」の集団と付き合うことに関してさえ、独立しすぎていた。この集団は第三党の無益さ[※註12参照]の代替物として、共和党内で集団投票する穏健派保守主義者の構築を試みる4つのうちの最新のものだ。

[次号へ続く]

(訳・註:前川範行) 

注釈

(1)リバタリアンの左派のこと。通常、アメリカでリバタリアンと言えば、資本主義的かつ小さな政府が想定されがちだが、コンキンらリバタリアン左派は無政府かつ反資本主義的要素を打ち出した。

(2)Minarchist 最小国家主義者のこと。主に司法と国防のみを執行する国家を用語する立場。日本ではロバート・ノージックやアイン・ランドが主な論者として紹介される。なお、ミナキストの言葉はコンキンの造語である。

(3)19世紀フランスでは、アナキストが法的に規制されており、かつ、世間のアナキストの語の評判が芳しくなかったため、リバタリアンを名乗るに至った。

(4)William F. Buckleyr.Jr, ウィリアム・バックレー・ジュニア。20世紀アメリカの保守思想家。保守系雑誌『ナショナル・レビュー』の創設者。

(5)New Right。旧右翼に対置される立場。アメリカでは、外交政策において、旧右翼は孤立主義だが、新右翼は干渉主義だった。

(6)Libertarian Party リバタリアン党は、アメリカのリバタリアン政党。コンキンが言うように、現在存在するリバタリアン党は「2代目」である。実体は右派リバタリアンの政党と言える。なお、単純小選挙区制かつ二大政党制のアメリカにおいては、リバタリアン党をはじめとする第三党が議席を獲得することは稀であり、議会政治への影響力は共和党・民主党に劣る。

(7)アメリカの新左翼系学生団体。過去にはロバート・ノージックが、前身の Young People’s Socialist League 青年社会主義連盟時代から在籍していた。

(8)アメリカの保守系・自由主義系青年団体。1969年のセントルイス大会で、多くのリバタリアンがYAFを去った。

(9)Columbus Day。アメリカの多くの州で採用されている祝日の1つ。アメリカ大陸を発見したとみなされているクリストファー・コロンブスを祝う。

(10)Robert LeFervre は、20世紀アメリカのリバタリアン思想家・活動家。コンキンが後述しているように、フリーダム・スクールとランパート大学を設立し、リバタリアン教育に注力した。

(11)コンキンの造語。初出は New Libertarian Manifesto 。コンキンによると、リバタリアンは手段と目的において首尾一貫していなければならず、政府を不正とみなすのに、政府やその制度(選挙等)を利用するのは首尾一貫していないとして、議会主義を採用するリバタリアン、特にリバタリアン党関係者への批判時に用いられた。

(12)Andrew Joseph Galambos アンドリュー・ガランボスは20世紀アメリカの天体物理学者、リバタリアン哲学者。知的財産権の擁護者であり、永続的な著作権を提唱した。

(13)John Hospers は20世紀アメリカの哲学者・活動家。同じく Theodora Nathalia “Tonie” Nathan は活動家。1972年のアメリカ大統領選挙でリバタリアン党からホスパースとネイサンが大統領・副大統領候補者として出馬し、不誠実な選挙人によって、選挙人を1人確保した。なおホスパース・ネイサンへの投票は約3600票とあまりにも少なく、投票全体に対する割合にすると「0%」である。また、ネイサンはアメリカ大統領選挙で初の選挙人を得たユダヤ人兼女性となった。アメリカの大統領選挙は制度上、直接選挙ではなく、選挙人に委任する間接選挙である。稀に多数派の有権者の投票結果に反して、選挙人が少数派候補者に投票することがある。

(14)Block for Disassembly、ウォルター・「ブロック」と反対声明を意味する block 、そして、分解と反・議会を意味する disassembly を掛け合わせた洒落。

(15)Ayn Rand は20世紀アメリカの小説家、活動家。1926年にロシア帝国からアメリカに移住した。主著『肩をすくめるアトラス』、『水源』によってリバタリアン化した人も多い。マレー・ロスバードの論的の一人。アイン・ランド協会に代表されるように、今日も根強い信仰がある。

(16)Robert Anson Heinlein は、20世紀アメリカのSF作家。主著『月は無慈悲な夜の女王』、『宇宙の戦士』。リバタリアン作家として知られる。

(17)『月は無慈悲な夜の女王』の登場人物。

(18)Dana Rohrabacher は、アメリカの元議会政治家。1989年から2019年までカリフォルニア州選出の共和党・合衆国下院議員だった。下院議員以前は、レーガン大統領のスピーチライターだった。

(19)個人的自由協会 Society for Individual Liberty は1969年に設立されたリバタリアン組織。1989年に International Society for Individual Liberty (略称 Liberty International ) に改称。YAFセントルイス大会で脱退したリバタリアンが集まった。

(20)Charles de Ganahl Koch は、アメリカの大富豪。コーク・インダストリーズの会長。コークは数多くのリバタリアン・保守系シンクタンクの設立を支援した。コンキンに言わせると、大富豪による支配であり、コクトパス Kochtopas (タコのようにリバタリアン活動家や組織を絡めとる有様から命名したと推測される)と呼び、非難した。

(21)Ronald Ernest “Ron” Paul はアメリカの元議会政治家。非議員時代もあったが、1970年代から2010年代までテキサス州選出の共和党・合衆国下院議員だった。産婦人科医であり、プロ・ライフ(中絶否定派)である。1988年には、リバタリアン党から合衆国大統領候補として大統領選挙に出馬した(結果は落選)。息子のランド・ポール Randal Howard “Rand” Paul はテキサス州選出の合衆国上院議員。

(22)John Randolph of Roanoke は、18-19世紀アメリカの政治家。合衆国下院・上院議員を務め、民主共和党を立ち上げた。

(23)Barbara Jean Lee は、カリフォルニア州選出の合衆国下院議員、民主党員。9.11テロの際、合衆国議員で唯一 2001年の軍事力行権承認 Authorization for Use of Military Force of 2001 に反対票を投じた。同法案はその後も残り続け、アメリカの対外武力行使の根拠法となっている。