『新リバタリアン宣言』【翻訳】②

アゴリズム:我々の目標

 リバタリアンが国家主義から自由社会へ至る基本的な原理は、リバタリアニズムを創った人々が理論それ自体を発見するのに使ったものと同じだ。その原理とは、一貫性だ。したがって、個々のリバタリアンを行為させるリバタリアニズムの理論の一貫した適用は、リバタリアン社会の創造をともなう。

 多くの思想家は、手段と目的の一貫性の必要を述べたが、そのすべてがリバタリアンではなかった。皮肉にも、多くの国家主義者は殊勝な目的と卑劣な手段の不一致を主張してきた。また、彼らの真の広大な権力と抑圧の目的が理解されるとき、そのような目的はとても一貫しているように見出される。目的・手段の一貫性の必要を混同することは、国家主義の神話の一部である。したがって、不一致を晒すことは、リバタリアン理論家の最も重大な活動である。多くの理論家は見事にそれらを成してきた。しかし、我々は、一貫した手段と目的がリバタリアニズムの組み合わせだと述べることに試み、また、最も失敗してきた。[1]

 この『宣言』自体が正しいかそうでないかにかかわらず、同じ原理によって決定可能である。もし一貫性が誤りなら、その内実は意味がない。実際、言語はちんぷんかんぷんで、存在は詐欺である。これは、過剰に強調されえない。不一致がこのページにあるならば、一貫した改革は新しいリバタリアニズムであり、錯誤として発見されるものではない。新しいリバタリアニズム(アゴリズム)は、信用されない自由や実体(の両方)なしに、信用されえず、それは誤った形態のみだ。

 我々の目標に目星をつけるところから始めてみよう。自由な社会を、少なくとも、我々が現在の理解をもってして達成する願いが可能なことと同じように、自由な社会を見つけるとはどういうことか?{2}

 疑いなく、既に構想されたことのある最も自由な社会は、ロバート・ルフェーヴル<7>のそれだ。人々のすべての関係は自発的交換、自由市場である。誰も何らかの手段で他人を傷つけたり、侵害しない。

 もちろん、国家主義よりも多くのものが、今ある社会のために、個人の良心から排除されることになるだろう。この完璧な自由社会に対する最も有害なものは、強制の機構の欠如だけである。[3]強制をするのは、ひとつかみの強制の実践者だけであり、彼らは自身を維持するのに十分な一団で、不正な略奪を享楽する。そして、自由は死ぬ。たとえすべての人が自由に生活していても、「リンゴひとかじり」、逆行、古い歴史の読み取り、あるいは当人自身の邪悪の再発見は、完璧な社会を不自由にする。

 自由な社会の次善は、リバタリアンLibertarian の社会だ。永久的な警戒は自由の対価(トマス・ジェファーソン)であり、散発的な攻撃に対する防衛の用意がある市場で、少数の諸個人を有することは可能かもしれない。あるいは、多くの諸個人が十分な知識と、(防衛でよく熟練されるかもしれない人を決して知らない強制者)気まぐれな攻撃を決定する、基本的な自己防衛の知識を使う能力を維持し、また、体系的な暴力の開始の利益性を排除するかもしれない。

 それでも、この「自生的防衛を伴うアナーキー」のシステムには非常に難しい2つの問題が残されている。1つ目は、著しく防衛しない人々の防衛の問題だ。これは(十分な技術によって解決されないだろうとすれば)四肢麻痺の精神遅滞者のような人々と、不断の注意を要する大変幼い子供たちのための進歩した技術によって削減可能だ。そのとき、短期間防衛しない人々がいて、また、おそらく比較的弱い敵対者に対する技能を試したい、暴力を最初に行う人によって圧倒される人々がいるようなとても珍しい事象がある。(後者は、とてつもなく珍しいだろう。なぜなら、単純に、ハイリスクで、投資に対し低い物質的リターンだからだ。)

 防衛される必要がある人々(されるべき人々ではない)は、次のような人に自覚的にならないような人々だ。それは平和主義者だ。ルフェーヴルと彼の原理は、幾何かのリバタリアンが自身を防衛するのが不快だと気付く方法を、彼らが使用するだろうということを決して恐れる必要はない。(もしかすると、彼らは、素早い認識のために、「穏健派」のボタンを身に着けることができるかもしれない。)

 大変重要なことは、防衛後に、暴力を最初に行う人に対して何をすべきかだ。誰かの財産が首尾よく侵害され、また、財産を保護しない事例は、たやすく用心するようになる。そしてついには、実際に上記の具体例にもかかわらず、詐欺の可能性と、他の契約した暴力の形態になる。[4]

 このような例は、原始的な「撃ち合い」によって、あるいは社会的に解決されるかもしれない。つまり、紛争状態にある2つの集団の両方に利害関係のない第三の集団の介入を通じてだ。この例は、社会の基礎的な問題だ。[5]

 両方の集団への願望に対する解決策の行使の試みは、リバタリアンの原理を侵害する。第三者がリスクのないように関与する「撃ち合い」は容認されるが、(審美的に心地の良い)少数の熱狂的礼賛者を除いて、ほとんどの場合、利益が出ず、効率的ではなく、文明的でもない。

 そこでの解決策は裁判官、「公平な観察者<8>」、仲裁者を要する。紛争問題に仲裁者か、侵害行為に対して裁判官が判決を執行し、決定事項を伝達すれば、実力行使が必要となるかもしれない。(ちなみに、平和主義者は実力行使なき仲裁を選択するかもしれない。)

 次のような市場システムは、ロスバード、リンダとモリス・タネヒル夫妻<9>、そしてその他の論者に提唱されたものだ。それは、(この著者が既に提唱したような)理論と技術の進歩によって完成される必要はないが、向上するかもしれない。この歴史段階においては、最適に見え、基礎的解決モデルとしてここで示される。

 第一に、鍛錬しないと選択する人々を常に排除することで、ある者が侵害か犯罪に対して自分自身を傷つける。ある者が、殺人犯(あるいは不注意な故殺犯)の場合<10>、価値を誰かの人生に帰することさえ可能だ。そのある者の人生は、暴力の開始者の人生の獲得から、ある者の人生の努力を継続させる根拠への支払いに対して、人生をやり直す(のを厭わない技術である)取り換え可能な臓器を手に入れることまで分類するかもしれない。ここで重要なことは、被害者が自身の人生、身体、そして財産への価値を災難の前に付与することだ。(交換可能財は単に、市場利子率で置き換えられるかもしれない。後述。)

 財産を喪失し、保険会社IAに報告したとしよう。IAと他の部門、あるいは他の部門と独立探偵機関(D)が調査する。財の使用の損失が最小化されるために、IAが迅速にAに物体を返還する。[6]今、Dは喪失した財産の発見に失敗したとしよう。その例では、IAの損失は保険料の支払いによって補償される。保険料を安価かつ競争的に保つために、十分な補償について注意することとして、IAは、盗難あるいは損失した財の賠償を最大化する強力なインセンティヴがある。(ある者が、国家の警察権力、そしてその恐るべき社会的コストのような、独占的捜索システムの多量のインセンティヴの欠如について雄弁になるかもしれない。)

 もし、Dが財を発見し、Bの占有物だと言うことで、(もしかすると懸賞金に誘発されて)Bが進んで財を返還するなら、この例は終了だ。Bが物体の財産権を主張するときのみ、Aも主張することで紛争が発生する。

 Bが保険会社IBを利用し、IBは自身で独自調査を行い、Dが誤っていたとIAに確信させることがある。それが失敗すると、今IAとIBは対立状態にある。この点に関して、市場アナーキーへのよくある反論は、以下のようなことを助長することになるというものだ。つまり、AとBの「戦争」が、かなり大きな保護部門あるいは契約と、保護企業(PAとPB)を有するかもしれない大規模保険会社を包含するまでに拡大することだ。しかし、競争者の資産だけでなく、少なくとも、資産のいくらかを暴力的かつ破壊的に用いるIAとIBのインセンティヴはどこにあるのだろうか。それらは、市場社会で長く存続するためのインセンティヴに乏しい。会社は、防衛に結び付いた資本と、スペシャリストを保有する。攻撃を調査する何らかの会社は、非常に容疑者になりやすくなり、確実に(下記で議論する)大部分がリバタリアンの社会で顧客を失うだろう。

 IAとIBは、それぞれの主張と証拠を提示して、紛争を解決するために単に支払いを行い、仲裁会社に依頼するだけで、非常に安価かつ有利になる。もしBの主張が正しければ、IAは訴訟を取り下げ、(戦争に比べ!)小さな損失を伴い、調査を向上する優秀なインセンティヴがある。もしAの主張が正しければ、今、敗北はIBにとって真実である。

 この点だけ、事件が十分に争われ、調査され、判断が下され、また、Bが盗んだ財産を手放すのを拒んだとき、暴力が発生するだろう。(Bの行動に対するIBの防衛について通告されている限り、Bはただ気を揉むかもしれず、また、Bはそれを無視するかもしれない。召喚令状は有罪決定まで問題とならないだろう。)しかし、PBとIBが譲り、Bが今盗まれた財産の回復で、競争的で効率的なスペシャリスト・チームに直面するに違いない。たとえBがこの点でBの抵抗者に関してほとんど狂人だったとしても、彼はおそらく、いつかB自身を含む、良質な公衆のイメージと多くの消費者のための熱心な市場機関によって、最小限の苦情とともに無効化されるだろう。何よりも、PAは、誰かを引き合いに出したり、他者の財産を侵害するために、行為しないに違いない。

 BやIBは今や賠償の責任がある。これは3つに分離できる。損害賠償、時間選好、そして逮捕だ。

 損害賠償は、原初の財や、その市場と同等物の返還である。これは、人間の身体やある人の人生の価値集合のいくつかの部分でさえ認められるだろう。

 時間選好は使用した時間の損失の損害賠償であり、また、IAがAの財産を直接返還するために支払うべき利害の市場利子率によって、容易に決定される。

 逮捕は、調査、探偵、仲裁、強制執行のコストの集約だ。すばやく(まさに最も国家主義的なシステムに反対する)逮捕コストを最大化し、蓄積した利益を最小化するために、略奪品を返還する高いインセンティヴをBにどれほど十分に与えるかに注意しなければならない。

 最後に、迅速かつ有効な正義と返還と、最小の騒ぎと暴力に埋め込まれたすべてのインセンティヴに注意。業務での他のすべてのシステムとこれを対比せよ。ところどころ、この全システムはうまく歴史全体に挑んでいることにも、同じく注意だ。すべてはあたらしく、また、リバタリアン理論と相容れないだけだ。

 この賠償のモデルが向上し発展するかもしれないにもかかわらず、それはとてもはっきりと理解されている。なぜなら、それは何らかの暴力すべてを伴う社会問題にのみを解決するからだ。その他のリバタリアン社会は、人間行為学(経済学だけではないが、特にそれに着目する人間行為の学問のためのミーゼスの用語)でのよい根拠づけと想像力あるSFの著者によって、最もよく描かれ得る。

 この社会――実際の自由市場と理論におけるリバタリアン、「開かれた市場(いちば)を意味するギリシャのアゴラ Agora から、アゴリスト Agorist と呼ばれる――のいくつかの特徴は、科学、技術、コミュニケーション、交通、製造、分配の急速なイノベーションである。現代の例は、より物質的に進歩し続ける人間性と技芸の、急速なイノベーションと発展へ進むだろう。また、非物質的進歩までもが、そのようになるだろう。非暴力的で芸術的な表現と、進んで自由を甘受する常に急速で完全なコミュニケーションの全形態に関して、総体的な自由だからだ。この自由の実利を褒めたたえるリバタリアン文学は、既に広大な実体があり、急速に発展している。

 誰かが、この賠償理論の記述に対して、いくつかの難解な反対に対処することで、それを結論付けるに違いない。これらのほとんどは、侵害された財や人格によって生じた価値への異議を減らす。非人格的市場と被害者に決定させるのは、被害者と加害者の双方にとって最も公平だと思われる。

 後者は、刑罰が邪悪な考えにとって必要だと考える人々を不快にさせる。行為の撤回可能性はそのような人々にとって十分ではない。[7]

 その人たちの中に刑罰のための道徳基準を提案する人はいないにもかかわらず、ロスバードとデイヴィッド・フリードマン<11>は、とりわけ、経済的な抑止の必要性について言及した。彼らは、100%以下の逮捕のパーセンテージが、わずかな成功の可能性として認められると言った。したがって、「合理的犯罪者」は、その犯罪者自身の利得のために、リスクをとる選択をするかもしれない。よって、追加的抑止は刑罰の形態の中に加えられなければならない。これが、加害者が自首するインセンティヴを低減させることでもあり、したがってまた、これが逮捕の割合をさらに低下させることは、考えられないか、あるいは、もしかすると、刑罰は、加速的な責任回避の出費に打ち勝つために、より急速な相場でエスカレートするだろう。ここで書かれたように、国家が定める犯罪からの責任回避の最も低い割合は80%だ。ほとんどの犯罪者は、90%以上の逮捕されないチャンスがある。これは、賠償が起こらず(被害者が刑罰システムを支持する課税によってさらに略奪される)、また、市場が放逐される刑罰更生システム内でおきる。非国家的初発の暴力に、活発な「赤い市場」があるのは不思議ではない!

 たとえ、このアゴリスト的賠償の批判が、「エントロピー」機能があることに注目するのに失敗したとしてもだ。潜在的加害者は、物体の損失と利益と逮捕費用のために、犯罪で得た物体の利得をあてがうに違いない。もし彼が即時に自首するなら、後者2つが最小になるのは正しい。ただし、利益と逮捕費用は、被害者と保険者に対する費用でもある。

 アゴリスト的賠償が、幸いにも、法令順守と相互的関係において抑止であるだけでなく、逮捕機能の市場費用が、社会内の強制力の社会的費用の量的測定を正確にさせる。現在知られている他の提案されたシステムに、そのようなものはない。大多数のリバタリアンが言えば言うほど、自由は機能する。

 アゴリスト的賠償理論がない場所は、映画に出てくる加害者の考えを機能させる。加害者は、ただ人間行為者であると想定され、また、彼の行為に対して責任を負う。さらに、誰が何を考えようが、関係のないことではないのか。関係することは、加害者が行ったことだ。思考は行為ではない。少なくとも、思考において、アナーキーは絶対のままだ。[8]

 もし、私が君の見晴らし窓を突き破り、それでもみんなが生活を続けることをあなたが知り、衝撃を受けて起き上がったとしても、私が通りすがりに躓いて落ちたのか、私が理不尽な怒りに駆られて飛び越えたのか、あるいは、銀行強盗に気づかれないように向かいにいる警備員の注意をそらすための計画的な犯行だったのかを、特に気にしないだろう。あなたが望むものは、あなたの窓が早く元通りになること(と混乱が落ち着くこと)だ。私が考えることは、あなたの賠償とは相容れない。事実、この件に関するエネルギーの最小支出でさえ、純粋に無駄ということは、容易に論証され得る。動機、あるいは、我々が知り得るすべての推測された動機[8]は、探索と関係しているかもしれず、また、もし2つのおそらく等しい推測があるとき、仲裁人に対する加害者の行為のもっともらしさを証明することと関連しているかもしれないが、すべてのそれら正義に関すること――リバタリアンが見ること――は、被害者が危害を受ける前に可能だったことと同じ条件に復帰されることだ。「罪ある考え」を罰するのは、神か良心に任せばよい。[9]

 他の異議は、(「社会」ではなく個人に)その負債を支払い、また、偉大な経験の中で、「自由に」なるように励む暴力の開始者になされることは何かという考えに起因する。国家主義社会で蔓延する再犯はどうだろうか。

 もちろん、ある者が加害者として登録されると、ある者は類似する犯罪にコミットするとき、おそらく、より緻密に、そして、最初の考えを注視するだろう。また、労働収容所が少数の極端な事例で損害賠償を支払うのに用いられるかもしれない一方で、ほとんどの加害者は債権をもって、比較的自由に働くことを認められるだろう。したがって、刑務所のような「犯罪者高度学習施設」は、加害を教育し、促進するために存在するだろう。

 判決と保護の高効率かつ正確なシステムの際立った特徴は、個人の時間、思考あるいは貨幣の取るに足らない少数を占めることだろう。その時、ある者が、我々がアゴリスト社会の99%を描かないと述べることができる。(リバタリアニズムが対処しない)自己破壊の排除、宇宙探査と植民、寿命の延長、知的進歩、個人間の関係性、そして美的変化はどうだろうか。それらすべてが確実に言うことができ、また言う必要があるのは、今を生きる人が半分かそれ以上の時間とエネルギーを国家に与えるか抵抗するかに使わなければならない場で、(物理学者の行為の定義である)時間エネルギーが、自己向上と自然の活用のその他すべての観点に利用可能とされることだ。より豊かで幸せな社会以外のことを想像するには、実に、皮肉な人間性の観点が必要だ。

 これは、我々の目標の描写であり、正義と保護の観点について引き延ばした焦点ないし、詳細な青写真である。我々は「ここ」と「そこ」を有する。さあ、そのための道、対抗経済学だ。

(訳:前川範行)

脚注

[1]

これまでで最も目覚ましいものを挙げよう。

●マレー・ロスバードは、リバタリアニズムを推進するためなら、過去のどんな政治的戦略も利用する。以前試したものが失敗すれば、より急進的なものに逆戻りする。

●ロバート・ルフェーヴルは、著者と、もしかすると他の人も感銘を受けるような、各人の純粋な思想と行為を唱道した。しかし、彼は属人的な戦術に由来する完璧な戦略を述べることをためらった。部分的には、記述することと同じく、命令することに満ちた恐怖のためだ。ルフェーヴルの平和主義は、彼のリバタリアンの戦術の魅力を、おそらく当然のことながら希薄にしている。

●アンドリュー・J・ガランボス<12>は、みごとに対抗経済学(次の章を見よ)を唱道したが、明確に、彼の反運動の立場と、彼の「秘密社会」組織戦術によって、新人を駆逐する。彼の「第一財産」の偏りは、ルフェーヴルの平和主義のように、おそらく、正当化される以上に、彼の理論の他の部分を損なっている。

●ハリー・ブラウン<13>の「私が不自由な世界で自由を見つけた方法」は、広く、個人的解放の人気のある手引きだ。ロスバード、ルフェーヴル、そしてガランボスに影響されることで、外面的だったとして、ブラウンは適切かつ正しく、国家主義社会で生存し、繁栄する個人のための有効な戦術を描いた。彼は全般的な戦略を提供しなかったし、彼の技術は、自由社会に近づくにつれて、発展した対抗経済システムに打破されるだろう。

●特定の代弁者はいないが、リバタリアン・コネクションに広く関連した逸脱は、テクノロジーで国家を出し抜くことで、自由を達成するアイデアだ。これは、爆発的に成長する情報サイン業を規制しないと決定したアメリカ合衆国の最近の事例で、妥当な有効性を持っていると思われる。だが、その仮定は、人々が独創性を欲する限り、国家主義を持続させるとされる人々の独創性を考慮するのに失敗する。

[2]

 我々の理解が進むとき、我々がより自由な社会を達成できるのは、当然だろう。

[3]

 『大爆発』で、SF作家のエリック・フランク・ラッセル<14>は、ルフェーヴルに構想された社会に近似するそれを仮定した。平和主義者ガンズは、時折常軌を逸した個人――例えば「役立たずのジャック」――のための修正メカニズムを有する。不幸にも、忌避することは、強制者が支持的で自己持続的な半社会を形作る「批判的多数」に至るや否や、失敗することだろう。彼らが可能なことは明らかだ。彼らが保有することだ!

[4]

 ミーゼスとロスバードは、契約の履行を欺き、失敗すること(もちろん、後者は契約で諸条項によって対処されるかもしれない)は、それ自体将来の財に対する犯罪だと主張した。契約の基本は、将来財(その時とこでの見返り)のための、現在財の転移(今ここでの見返り)だ。

 すべての犯罪は暴力の開始であり、財産を非自発的に剥奪するか、あるいは財の受領証か合意によって自由に転移される財の支払いの見返りを妨げる強制力の行使の両方である。

[5]

 ミーゼスの指摘するような社会は、労働の分割の利点のために、存在する。生産の異なる段階を分化することで、諸個人は、彼ら独りの努力よりも多くの生産された全面的な富を得る。

[6]

 この点に関して、我々は時間選好についてのミーゼスの概念を導入しなければならない。将来財は常に現在財と比較して割り引かれる。過ぎ去った使用時間のためだ。個人が時間選好を価値づける一方で、高い時間選好を持つ人々は低い時間選好を持つ人々から借りることができる。高い時間選好者が、低い価値選好者が過ぎ去った価値よりも、多くを低い価値選好者に支払うからだ。これらすべての時間選好の取引が自由市場で交換する地点は、すべての融資と資本投資の標準的かつ通常の利益率に決定される。

[7]

 マレー・ロスバードは、ここでは最大限穏当な主張をしている。彼は二倍の賠償を唱道した。つまり、加害者は被害者に対して(可能な限り)前の危害がなかった状況に回復するだけでなく、彼自身も同じ量だけ被害者にならねばならない!この二倍化は恣意的に見えるだけでなく、ロスバードは、(あのベンサムの)「道徳計算」はもちろん、刑罰のための道徳的規準を与えない。

 他には、逮捕された加害者のさらなる略奪を要求することに関して、よりいっそうひどいものがある。すぐに誤りを起こした愚か者が自首し、むしろ彼の追跡者に高く費やすよう心掛ける可能性がある。多くのネオ・ランド主義者は、キャンディ(例えばゲーリー・グリーンバーグ)をくすねる子供を撃ち殺すだろう。他の者は、些細な住居侵入を返済するためにベッドに10代の若者を括りつけた。

 これは恐怖の一端を依然としてなぞっている。最大限の正義の戯画化は、原状復帰か少し罰することを望むのではなく、暴力の開始者を更生したい人々によって提案される。更生執行者たちの間でより啓蒙された人々が共同で賠償負債を返済することを認めるであろう一方で、彼らは、今や手も足も出ない逮捕された加害者を拘禁し、洗脳するために、被害者の(まったく合法的行為の基準である)自己防衛権の委任を了解するだろう。

 人物の制裁、身体へのむち打ち、そしてもしかすると、残酷な身体的拷問の相対的減免といった趣旨ではなく、更生執行人たちは価値観と動機の破壊、つまり、自我の消滅に努める。大変大げさだが当然の言葉で、彼らは逮捕された加害者の魂を屠りたいと願う!

[8]

 テレパシーが発見され、実務的に用いられるなら、少なくともそれは、動機と意図を調査することができるかもしれない。いまだに、アゴリスト的システムの活用だけが減免の嘆願のために可能だろう――それも、被害者のさらなる出費を伴う減免だ。この脚注は、次の段落で2回記された理由とも関連している。

[9]

 良い質問は、どこで「刑罰」が開始されるかということだ。もし存在するなら完全に無価値な、苦痛を欠如ないし喪失することのない奴隷と、賠償するための支払いが不可能かつ負債を負う責任があるとするには不適切と考えられるとても幼い子供に対してのみ、概念は適用可能だ。もちろん、原始的経済は、多くの場合、大変信用できる探索と価値の測定を供給するような合理性と技術関して、非常に多くの問題があった。

 それにもかかわらず、アイルランド<15>、アイスランド<16>、そしてイボ族[ナイジェリア南東部の民族]のようないくつかの原始的社会は、復讐を改善するための仕返し/報償のシステムを導入した――そして、即座に準アナーキーへと進化した。

訳注

<7>Robert LeFevre は、20世紀アメリカのリバタリアン思想家・活動家。コンキンが後述しているように、フリーダム・スクールとランパート大学を設立し、リバタリアン教育に注力した。

<8>Fair Witness は、アダム・スミスが提唱した概念で、人間が自己を客観的にみるために自らの胸中に持つ利害関係を持たない人間観のことである。

<9>Linda and Morris Tannehill は、アメリカのリバタリアンの夫妻。主著 The Market for Liberty で知られる。

<10>原文は in ase of。case の誤りと思われる。

<11>David Friedman はアメリカのリバタリアン経済学者、政治哲学者。親の Milton と異なり、無政府資本主義を帰結主義的に擁護している。息子のパトリ Patri も無政府資本主義者であり、公海上にリバタリアンの共同体であるシーステッド Seastead を構築する活動家でもある。

<12>Andrew Joseph Galambos アンドリュー・ガランボスは20世紀アメリカの天体物理学者、リバタリアン哲学者。知的財産権の擁護者であり、永続的な著作権を提唱した。

<13>Harry Browne は、アメリカのリバタリアン作家、活動家。1996年と2000年にリバタリアン党から大統領候補として出馬。

<14>Eric Frank Russell は、20世紀イギリスのSF作家。The Great Explosion は、1962年発表の彼のSF小説。

<15>リバタリアンのお気に入りの歴史的事実として、中世アイルランドのブレホン breitheamh は頻出である。ブレホンは、言わば民営化された裁判官であり、紛争が発生すると仲裁を試みた。

<16>同じく、中世アイスランドのゴシ goði も頻出である。ゴシは族長だが、族長である権利は市場に任されていた。日本での身近な例は、日本相撲協会の年寄名跡(株)制度だろうか。