リバタリアン同盟綱領

総論

 我らリバタリアン同盟は、万人が自己所有権を保持し、またその効力が発揮される社会への変革を目的とする組織である。

 我々は、自己所有権の侵害者を発見し、告発し、粉砕する。特に、その最たる侵害機構である国家、そして国家の執行機関である政府を打倒する。また、政府に協力する大資本家や補助金をたらふく蝕む者も打倒する。

 議会政治家・官僚等から成り立つ政府構成員、大資本家、そして補助金の簒奪者から成る課税階級は、課税という名の強奪によって虐げられる負税階級と根本的に利害が異なる。この二つの階級の調和は決してありえず、力関係によって関係性が構築されるに過ぎない。課税階級の強制力は自己所有権に依拠しない粗暴な実力であり、この階級に対峙する負税階級の暴力は自己所有権に依拠する正当な実力である。我々は課税階級に対峙しなければならない。

 政府の打倒だけが我々の目的ではない。我々はリバタリアン社会の構築もしなければならない。未来のリバタリアン社会がいかなる憧憬を描くのかについての推測は、困難を極める。しかし、人類の多くが政府機構から解き放たれるにつれて、我々は新たな社会像の提示と建設をしなければならない。これは、不断の議論と行動のみがそれを立証するだろう。

組織論

 組織の必要性

 我々の目的の達成のためには組織が必要である。この組織こそがリバタリアン同盟である。それはヒエラルキーを有するだろう。政府という巨大かつ規律のある組織を打倒するためには、組織とその行動が必要であり、個々人の非組織的行動では達成できないと我々は断ずる。アゴリズムは政治的組織を否定する運動論であるが、この理論は過渡期における国家の妨害を軽んじている。国家は絶えず人々を虐げるのであって、組織的紐帯のないアゴリスト企業家は即座に弾圧され、国家との経済闘争に敗れるだろう。現在も対抗経済の領域は拡張こそしているだろうが世界的潮流とは言えず、また、常に国家は対抗経済の領域に侵入している。国家は人々の労働と財産を蝕むことによって生息する寄生的存在であるから、単にリバタリアンにとって望ましい領域の拡張に留まると、その領域は国家の侵略によってリバタリアンのものではなくなる。人類の歴史の多くが非国家的経済領域から国家的経済領域の変貌であったことは、容易に理解されることだろう。よって、必要なことは、単なる経済闘争ではなく意識的な政治闘争である。意識的な反抗がなければ、ただ弾圧されるのみである。

 組織の構成員は規律づけられていなければならない。組織情報の漏洩防止、会議主義、維持費の納入、理論研鑽、行動への参加は必須事項である。

 我々の組織の集権制については、世界がリバタリアン化するにつれて絶えず移行しなければならない。巨大な権力機構が次第に本来の目的から道を踏み外し、悪しき意味における「私利私欲」の怪物へ変異することは人類の歴史の常であるから、意識的に権力をそぎ落とさなければならない。

 リバタリアン中央集権主義

 我々が採用する組織の原則は、リバタリアン中央集権主義とする。つまるところ、行動前おいて、外部への情報流出を除き、組織内で自由闊達な議論を行い、リバタリアン思想の髄を陶冶する。行動決定においては、行動がリバタリアン思想に紐づけられているのかを確認した上で決定しなければならない。行動においては、行動決定の段階で定められた事柄に忠実であり、また、リバタリアン思想に行動が合致していなければならない。行動後においては、行動がリバタリアン思想に基づいていたのか、また、運動の効用を熟慮しなければならない。もし、仮に、多数の構成員が意見を同じにすることがあっても、それがリバタリアン思想に紐づけられていなければ無効とする。よって、我々は単純な多数決を採用しない。

 大衆運動

  リバタリアン社会到来にあたって、我が同盟のみでは実行が困難だろう。その最たる理由は、非リバタリアンのリバタリアン化、あるいは、非リバタリアンをリバタリアン運動に包摂する困難さに由来する。我が同盟への新規構成員の勧誘は当然に行うべきであるが、すべての人間が文脈なしに急激にリバタリアン化すると考えるのは楽観的すぎる。強烈な潔癖は結局のところ運動を拡大させることができず、自壊することになるだろう。この「移行」に主に対処するのが大衆運動である。

 我が同盟が鉄の結束と規律を良しとするのに対して、大衆運動は最低要件の一致をまず求めるべきである。よって、大衆運動にリバタリアン中央集権主義を持ち込むのは、当該運動体と情勢を踏まえてよく考案した後でなければならない。

 では、大衆運動体ではどのような運営方針をとるのか。関与する者が極少数のうちは実質的に指導者あるいは代表者によるリーダーシップを十分に甘受しなければならないが、構成員の充足とともに、直接民主制や自由連合へと転化すべきだろう。ただし、この際、最低要件の妥協あるいは政府への妥協だけは決して認めてはならない。あくまでも原則に対して忠実であるよう組織化するのが、同盟員の使命である。また、ある大衆運動体のリバタリアン化が進展した場合、リバタリアン中央集権主義を採用すべきである。

 このように、諸個人や集団のリバタリアン化を段階的に行うことが大衆運動の狙いの一つである。

 他組織との共闘

 我々は、我々の他に我々の理念を部分的にせよ達成するような社会変革の勢力が存在することを認める。もし、最終目標が異なる他組織であったとしても、道中が同じであれば協力した方がよい。我々の敵、政府は常に政府に反する者・組織の分断と自滅を狙っている。「自身の利得」を勘定することはあらゆる組織において必須であるが、同時に、「敵の利得」もまた勘定しなければならない。敵が衰退するのであれば、協力を考案すべきである。

 政府の土地の労働組合

 政府の占有する財産に権利はなく、その暴力によって不当に保持しているだけであるから、政府の土地は奪還すべきである。しかし、現実には政府の土地には政府の組織や建物が存在することが多く、政府構成員が陣取っているため奪還は容易ではない。実際に財産を生み出すのは政府ではなく、政府の土地で働く労働者であるため、彼らが政府の土地を占有することは正当なことである。よって、政府領域の解体のために労働組合を組織、または加入すべきである。なお、当該組合がリバタリアン化するよう、党員は常に努力しなければならない。

交換と強制

 自己所有権と自発的交換

 自己所有権は万人が有する権利である。自分自身の人格と身体はその人自身のものであり、合意なくこれを侵害することを不正とみなす。ゆえに、いわれのない殺害、身体への暴行、徴兵は不正である。次に、ある者が労働を対象に加えたとき、その労働の成果物はその人自身のものである。ゆえに、労働の成果物の徴発――つまり課税――は不正である。よって、政府構成員と大資本家を基軸とする課税階級は自己所有権の侵害者であるから、打倒しなければならない。

 自己所有権に依拠する行為は、すべて正当である。よって、当事者が合意した贈与・交換は正当なものであるから、いわゆる「被害者なき犯罪」をこの世から一掃する必要がある。また、自発的交換に依拠しないような他者を束縛する契約については無効である。よって、「知的財産権」、強行法規の類は一掃しなければならない。

 自発的交換に依拠した協業関係は正当かつ善である。一方で、自発的交換に依拠しない関係は不正で悪で略奪である。国家と政府は本質的に略奪によって持続しており、権利の侵害者であるとともに、人類の交換関係を破壊している。

 国家

 国家は概念であり、物理的実体として実在しない。通常の理解では、国家はその執行機関である政府を主として、政府に協力する諸関係を包含する曖昧な概念とされている。それに対して、我々は国家を以下のように定義する。国家とは、自己所有権を侵害する人々とその諸関係から成り立つ強制的権力概念である。また、通常、国家の支配が及ぶ領域としてイメージされるが、あくまで本質は強制をせしめる概念であり、いわゆる「国土」はその概念が通用する範囲であるから派生的なものである。

 もし自己所有権を侵害する個人がいたとしても、その人物のみでは国家は存続し得ない。侵害者らが相互に生み出す強制的な権力作用が国家の正体である。然るに、国家にはその度合いが認められるのであって、侵害の程度によって国家の「大きさ」が決定されるのである。

 以上より、国家主義は誰しもがその資格を有し得る。政府の構成員でなかったとしても、国家主義者であり得る。
 

 政府

 国家は概念であるがために、それだけでは人間に権力を執行できない。具体的な人間の存在と制度が必要である。この侵害執行機関が政府であり、その人員が政府構成員である。政府の大きさとは、制度の緻密さと構成員の多さに依存する。単純に構成員が多いだけでは大きな政府とは言えない。構成員らが有機的に作用する制度が担保されていないと執行できないため、政府が大きいとは言えない。反対に、構成員が少なかったとしても、緻密な制度が確立され、運営されている場合は小さな政府と言えない。相対的な指標にしかならないが、構成員が多く、制度が緻密なものを大きな政府、構成員が少なく、制度が緻密なものを小さな政府、構成員が多く、制度が杜撰なものを腐敗政府、構成員が少なく、制度が杜撰なものを未熟な政府と呼ぼう。

 大きな政府は政府の最上位形態であり、最も唾棄すべきものである。大きな政府は人類の交換関係の末端の統括をも試み、なおかつ、リバタリアンの反抗を最も困難にさせる。つまるところ、各人の日常的交換すらも、その統括の範囲内となり、意図的・非意図的を問わず、政府と協力関係にある者が増大する。しかし、根本的に政府は寄生的であるため、持続することはない。この危機的状況において、政府の人員削減によって存続を図ると小さな政府になり、図らないことで腐敗政府となる。

 腐敗政府は、四形態の中で最も多く見られる。この形態は、「合法」的な補助金獲得が目立つ他、「違法」な公務員の賄賂が多く見られるようになる。政府そのものは非持続的だが、おそらく、これら四形態の中では最も持続的な政府の形態であり、極端な例がソビエト連邦である。ソビエト連邦は破滅的な国家社会主義を是としたが、それでも70年近く持続した。腐敗政府は、リバタリアンにとって好機である一方で、大きな政府へ移行しやすい。また、自らの特権と寄生的利得を小さくしようと努める政府構成員はほとんどいないので、小さな政府に移行する例はほとんどない。

 小さな政府は、現在ではほとんど見られなくなった政府の形態である。小さな政府は小規模の統治機構と人員によって、人々を強制せしめる。世に広まる「小さな政府」の「小さな」は端的に誤りであり、政府支出や政府の権能を一瞥すると、「小さな政府」論者が揶揄する「大きな政府」よりも巨大なものになっている。この形態は持続しない。というのも、政府は常に拡張を志すため、自らを小さなままにしておくことはないからだ。

 未熟な政府は、日本国政府、合衆国政府、韓国政府のような、いわゆる「公的な」政府が該当することはあまりなく、自己所有権に依拠しない暴力を纏った団体や窃盗集団が該当することが多いだろう。非公的な未熟な政府は「合法的」に行動できないため、政府の資源を動員しづらい。その上、多くの人々の目には政府として認知されないため、非公的な未熟な政府との衝突は「政府対我々」という構図を見えづらくさせる。よって、我々は未熟な政府よりもその他の政府とまず敵対すべきである。

 よって、今の時代を生きる我々が注力すべきは、大きな政府と腐敗政府との闘いである。

 課税階級と負税階級

 国家拡大のために、政府構成員は政府機構を用いるだけではなく、多くの協力者と協調する傾向にある。この協力者群によって課税という名の強奪を制度化しているのである。政府構成員、大資本家、補助金の獲得者、国家主義者らが利害関係のために階級を構築する。この課税を執行し、消費する階級を課税階級と呼ぶ。対して、課税階級に強奪される階級を負税階級と呼ぶ。負税階級は労働者、「主権」を有さない「外国人」、課税階級に属さない財の供給者らから成る。

 課税階級は自身の階級利害のために財を強奪し、人々を強制する。そして、自身の存続のために負税階級の人間を――実際にはほとんどが課税階級に移行できないが――課税階級に移行するよう誘引する。「課税は主権や行政サービスの対価」であるという言説や、「国政を選挙で変えよう」というスローガンは課税階級による象徴的なプロパガンダである。また、税はゼロサムであるから「盗られるくらいなら盗る側になる」というインセンティヴが働きやすい。この諸誘因が負税階級の凝集性を阻害しているのである。さらに、課税階級は、目に見える課税の他に、規制によって自身の保身を図ろうとする。あらゆる規制は人々の創意を、新規参入を阻止するのであり、人類の進歩を引き留める。

 負税階級は課税階級に属する者以上の人数――それは人類の過半数である――がいるが、まだ組織化されておらず、本来有すべき財産と人身を不当に強奪されている。負税階級の階級利害は税を廃止することだが、個人の利害を最大限発揮しようとすれば、課税階級への移行を試むようになる。補助金の受益者になろうと必死になり、それが部分的にせよ達成されるようになれば、課税の総量は増えることになり、負税階級を苦しめることになる。

 リバタリアンは必然的に負税階級に属する。一方で、国家を前提とする(ネオ)リベラル、保守主義者、国家社会主義者は課税階級に属する。課税階級の甘言に騙されてはならない。リバタリアンは早急に階級意識を芽生えさせ、階級敵を打倒しなければならない。負税階級が解放されるためには、負税階級に属する者が団結し、課税階級を打倒する他ない。世界のリバタリアンよ、団結せよ。

歴史

 人類の圧制史

 これまでの人類の歴史は、国家と政府による圧制の歴史である。一時的に、アイルランドのブレホンやアイスランドのゴス等、国家の力が弱まったこともあったが、数千年以上に及んでひたすらに殺人・収奪等のような自己所有権の侵害が行われてきた。そのような圧政下にありながらも、人々は――結果として不完全だったが――実力行使によって害悪を取り除くよう努力してきた。その結果、「自由民主制」を重んじる国家が現代では標準となった。我々は「自由民主制」国家を絶対に許さない。名称がなんであれ国家に変わりがないからだ。また、以前の専制かつ封建的な国家よりはマシだと判断できるが、マシだからと言ってそこで立ち止まってはならない。ひたすらに闘争を続け、自己所有権に反する制度を一掃しなければならない。同じ考え方は奴隷制に対しても言える。剥き出しの奴隷制は害悪そのものであり、農奴制はそれより多少マシであり、現金のみを対象とした課税制は…という思考法があるからと言って「私の身体の安全はひとまず保障されているので、課税は仕方ない」と諦めてはならない。不正は不正である。

 人類の歴史は、自己所有権の侵害からの解放史である。

 リバタリアンの歴史

 リバタリアンが誕生するよりも前に、まだ自身をリバタリアンだと自覚的に意識はしていないが後世のリバタリアンに通ずる運動を行う者たち――プロト・リバタリアン――がいたが、ここでは意識的なリバタリアンの歴史を確認しよう。

 19世紀にジョセフ・デジャックがリバタリアン――正確にはフランス語のリベルテール libertaire ――を意識的に用い始めた。当時のリバタリアンたちは徹底的に国家と資本家を憎んだ。しかし、組織化の失敗と国家的弾圧によってマルクス主義の台頭を許した。その後、20世紀前半のスペイン内戦にて、リバタリアンは活発に組織を作りファシスト政権と戦ったが、スターリン主義者の襲撃によって運動は頓挫してしまった。内戦後、リバタリアン運動は数十年間の暗黒期を迎える。

 次にリバタリアン運動が熱を帯びたのは、1960年代以降のアメリカである。アメリカのリバタリアンは欧州のオリジナルのリバタリアンとは異なり、自由市場を強く信頼していた。彼らにとって、「衝撃」はニューディール政策であり、第二次世界大戦であり、ベトナム戦争であった。これらの事象は自由市場を損なっていると考えたのだ。マレー・ロスバードやサミュエル・エドワード・コンキン3世らが運動を盛り上げる中、デイヴィッド・ノーランは1971年にリバタリアン党を組織した。当時のリバタリアンは、元々共和党を支持あるいはそれに近似した自由のための青年アメリカ人 Young Americans for Freedom (YAF) の右派系と、民主社会のための学生運動 Students for Democratic Society (SDS) の左派系から成り立っていた。その後、共和党内で「社会保守」とされるウィリアム・バックリー・ジュニアの影響力の増大に危機感を持った人々が1969年の共和党セントルイス大会で実質的に追放された後に、そして、スターリン主義者に乗っ取られたSDSから追われた人々によって、急進リバタリアン同盟が組織された。しかし、ディクス基地のデモ中の逮捕の総括を巡って、この同盟はすぐに瓦解した。右派は直接行動をすべきではないと考え、左派は逮捕上等で組織化を経ないまま国家の最も剥き出しの実力に挑んだのだ。

 左右のリバタリアンの共闘が見られなくなってからは、アメリカではリバタリアン党がリバタリアン系組織で最も影響力を発揮することとなった。しかし、このリバタリアン党の使命を巡って、活動家養成所と考えていたロスバードと、議会主義路線のエド・クレーン、チャールズ・コークらとの対立があり、ロスバードが追放されたことでリバタリアン党は議会主義の政党となった。アメリカ合衆国は単純小選挙区制を基本としているため、共和党・民主党以外の第三党が議席を得ることはまずない。議会主義でありながら議席のないリバタリアン党ないしリバタリアン運動が低調となったのは、当然のことである。展望が見えなくなった穏健的あるいは半人前のリバタリアンは、ネオリベラリズムの台頭とともに、政府=大資本家連合のネオリベラリズム体制に取り込まれてしまった。またもやリバタリアン運動は数十年の暗黒期を迎える。なお、この暗黒期の中で、ロスバードは――自身が批判していた――保守派に「迎合」し、死んでいった。

 次に運動が盛んとなったので、ティーパーティー事件以降のことである。ティーパーティー運動はリバタリアンだけの運動ではないが、課税に反対することが「神話」のアメリカでは相当数の人々に訴求する運動となった。2016年の大統領選にてトランプとヒラリーの両者を忌避した人々がリバタリアン党に投票したことを除き、実質的な党勢増大や運動の醸成は乏しく、コロナ禍を機に穏健派が党内権力を奪取される事態となった。
 

 リバタリアン史の総括

 過去のリバタリアンたちは果敢に国家と政府に挑んだ。それは誠に尊敬すべきものである。しかし、以下の問題をついぞ克服することはできなかった。①有効な組織をつくれなかったこと、②議会主義や穏健化を打倒できなかったこと、③大衆を獲得できなかったこと、④国家と政府に対して無力であったことが挙げられる。また、以下の教訓が挙げられる。⑤帝国主義とスターリン主義は理論のみならず運動においても敵であること、⑥保守主義やネオリベラリズムに迎合しても国家は存続する挙句リバタリアン運動が発展しないこと、⑦運動においては一致できる内容に限り共闘した方がよいこと。

①有効な組織をつくれなかったこと、これは最大の問題にして、その他問題の発生原因の多くを占める問題である。リバタリアンは非社交的社交性ないし反権力・反権威を是とする特徴があるため、組織の構築に100年以上失敗している。誠に残酷なことだが、そのような性質を是とするリバタリアンが社会を変革できず、政府の拡張を許し、自身の首を絞めるに至ったのだ。リバタリアンの組織論と言えば、自由連合が挙げられるが、それだけではうまくいかなかった。自由連合はスパイが容易に中枢部に侵入するだけでなく、相対主義の様相を呈する、つまり、他の組織・運動体に対して「意見が合わないから関係性を放棄」しがちであり、最低限の一致のような共闘まで忌避するようになる。もし自由連合論が万能であれば、現在の政府を打倒することについて、アナキスト・マルクス主義者・リバタリアンは即座に合意し行動を共にするはずだが、そうはなっていない。それどころか、自由連合ありきの運動は逆説的に完全一致を求めてしまうことになる。なぜか。自身の政治組織の乗っ取りを恐れ、運動体での交雑を恐れるからだ。党を持たない政治活動家たちは、大衆運動体が最終防衛ラインとなっているため、大衆運動体に他党派や他の集団を招き寄せたいとは思わない。その上、非党派的な玉石混交の「柔らかい」大衆運動よりも規律を持った「堅い」党の方が、自身の大衆運動体をよく防衛し、他の大衆運動体に対して浸透しやすいのだ。これは、SDSの一件からも明らかであり、党派を嫌ったSDSの活動家たちは、容易にスターリン主義者に運動体を乗っ取られてしまった。自由連合を完全に放棄する必要はないが、まずそれが適用されない組織を作るべきである。

 ②議会主義や穏健化を打倒できなかったことは、誠に致命的な点である。人数が多ければよいというものではなく、規律ある綱領と人員が存在しなければならない。国家の中の議会は、国家の強制作用とそれを具体化ならしめる政府によって保全されているため、利害対立ゆえに反国家的な事象はほとんど容認されない。議会によって社会変革を志す議会主義は、国家を翼賛する体制に賛同するようなものである。さらに質の悪いことに、議会主義者は議会での勢力を第一と考えるようになり、政府の制度と構成員をもって、あるいは「合法」を志して弾圧するようになる。これが、第一次世界大戦前後にドイツで起こったことであり、ロスバードが追放されたことでもある。リバタリアンのうち穏健な者は保守主義や新自由主義に迎合するようになったが、これは完全に誤りであった。「大きな政府」から「小さな政府」は幻想であり、そこにはより大きな政府かより酷い腐敗政府が現れただけである。さらに、穏健派の害悪は他にもある。意識的に他組織に加入戦術を試みるわけでもなく、ただ、他の組織に追随するだけではリバタリアン社会は到来しない。議会主義は即刻放棄すべきである。

 ただし、次の場合国家の議会は有効なものとなり得る。議会を用いてリバタリアン思想を扇動する場合である。もっとも、この段階はまだ未来のことであり、まず我々は議会と対峙しなければならない。

 ③大衆を獲得できなかったことも問題である。アメリカのリバタリアンに顕著だが、オールド・ライトに由来するエリート主義と大衆蔑視は、明らかにリバタリアン社会の到来を妨害している。大衆を蔑視するあまり、大衆を獲得できなかったのだ。社会変革は少数の者だけでは達成できず、多くの人間を必要とする。大衆蔑視では社会を変革できない。晩年のロスバードはこの点を考慮し、「普通の人々」の文化基盤にコミットしようとしたが、それはただの穏健化であり、リバタリアン運動とは何も関係がなかった。大衆を蔑視してはならず、さりとて穏健化してもいけない。

 ④国家と政府に対して無力であったことは、リバタリアンの歴史そのものである。満足な組織がなく、大衆も賛同していない状態では、政府に打ち勝つことはできない。非政治的な社会変革を目指すアゴリズムに顕著だが、政治活動を放棄して、経済活動のみに依拠したとして、それはただ政府に弾圧されるのみである。売り買いのみから成り立つ関係、特に顔の見えない関係は、アゴリスト企業家がひとり弾圧されても、消費者からすると供給者がひとり減っただけのことであり、何の階級意識も芽生えない。現在、多くの人々は、残念ながら、「合法」は善いことであり「違法」は悪いことと認識する。そのような中で、ただ「違法」な経済活動を行うだけでは「模範的市民」から告発されるのみである。政治活動もなくてはならない。

 ⑤帝国主義とスターリン主義は理論のみならず運動においても敵である。帝国主義は必然的に人々の自己所有権を侵害するため、言い訳のしようがない敵である。スターリン主義はリバタリアンを1世紀近く妨害してきた害悪極まりない敵である。これら2つの思想は国家主義の中でも特に有害であり、即刻根絶しなければならない。

 ⑥保守主義や新自由主義に迎合しても国家は存続する挙句リバタリアン運動は発展しない。前述の通り、これら2つの思想はリバタリアンとは異なる階級に属しているのであって、本質的に敵である。彼らに迎合した「リバタリアン」がいかにみじめに敗北してきたのかは、歴史が証明している。20世紀後半の共和党(レーガン政権)の台頭は、新自由主義者にとって歓迎されるものだったが、その後、アメリカ合衆国の政府規模は大きくなる一方であり、9.11のテロにて益々勢いづかせることになった。日本においても同様で、行財政改革が実行されたが、政府部局が減ることはなく、むしろ「民営化」の名のもとに政府の管轄は増えることとなった。「小さな政府」派は大きな政府派の親友である。

 ⑦運動においては一致できる内容に限り共闘した方がよい。まず、これは左右のリバタリアンの間でよく当てはまる事象である。左右のリバタリアンは、生産手段の管轄権を巡って激しく対立する。左派――リベルテール libertaire の名を正統に受け継ぐ者――は生産手段の社会的所有を主張し、「私的所有権」に反対する。一方で、右派――リバタリアン libertarian の名を正統に固辞する者――は生産手段の私的所有を認める。しかし、同時に、右派は各人の同意があれば社会的所有を認めるのだ。左派の世界観に右派の住人は存在しないが、右派の世界観に左派の住人は存在しうる。国家なき社会にて、どのような社会形態をとるのかに端を発する軋轢や「闘争」を、国家が強まる今行う必要はない。国家主義者=権威主義者=議会主義者の連合軍を打倒するためには、リバタリアンを軸に結集して闘う他ない。なお、新自由主義者や保守主義者との共闘は前述の通り、誤りであることが判明したので採用しない。

 リバタリアンの運動を力強く前進させる組織づくりが全体の要点となる。

 人々をリバタリアンに転向させ、リバタリアンを団結させ、国家を打倒せよ!

(リバタリアン同盟)