リバタリアンな市場と民営化

 リバタリアンな市場とは、民営化とは何を意味するのか。リバタリアンは応答しなければならないだろう。

 通常、「市場」と言えば、貨幣的な交換のみを意味するだろう。具体的には、商品や株式の売買、雇用、そして政府関係部局の取引がそれにあたる。よって、「ご近所づきあい」や読書会のような非貨幣的とみなされる行為は除外されている。この見解に対して、リバタリアンが言うべきことは「それはおかしい。」その一言である。

 まず、貨幣とは何を指すのか。国家が介入する中央銀行で発行されたものだけが貨幣ではない。貨幣とは最も交換に使用される商品のことである。よって、我々が日ごろ目にする「●●銀行券」だけが貨幣になるのではない。状況に応じて貨幣は変化する。歴史的には、タバコ、砂糖、塩、牛、釘、銅、穀物等、多種多様な財が貨幣として取り扱われていた(1)。あくまで貨幣は「最も交換に使用される商品」であり、必ずしも道徳や権利が含意されている訳ではない。いわば社会構築主義的なトークンに過ぎないのだ。ゆえに、リバタリアンは貨幣のすべてを肯定する訳ではない。特に、準備率が 100%に満たない(=すべての預金者が同時に引き出せない)現状の銀行制度と銀行券に対しては異議を唱えなければならない。それは、詐欺だからだ(2)。法定貨幣は「政府の信用」のみに紐づけられており、政府が好きなタイミングで好きなように「発行」できることを意味する。そのような貨幣は非リバタリアンな「市場」において肯定されるかもしれないが、リバタリアンな市場においては唾棄すべきものである。

 商品の売買においても、また、非商品経済とされる「ご近所づきあい」においても、人々の交換を一方的に規定し、妨害する政府統制下の貨幣は市場を、つまり人々の交換を破壊する。政府が統制する貨幣経済下の「市場」では、政府構成員とその協力者以外の人々は、望んでもいないものを強制的に供出させられることになる。本来、あなた自身のものであったはずの財産は、直接的には税金として収奪され、間接的には規制による機会費用によって損失を被る。政府がなければ収奪されなかった、あるいは機会費用を生じることがなかったはずの時間と資源(労働・資本等)は、もしかすると「ご近所づきあい」に代表される共助に用いられたのかもしれないし、好きな商品を購入することで自助に用いられたのかもしれない。いずれにせよ、政府の市場破壊行為は、資本財と消費財の生産及び消費、そして多くの場合非貨幣的とされる共同体や人類に対するコミュニケーションを蔑ろにする。税と規制によって窮乏する人々は、次第に「政府頼み」の病に伏し、他者の人格の軽視と、共同体からの撤退へ向かう。税による窮乏によって、他人に構っていられる時間と消費財の余裕はなくなるのだ。

 では、リバタリアンの云う市場とはどのようなものか。それは、自己所有権を侵害しない、交換による結果状態。ただ、それだけである。あくまで市場は帰結にすぎず、政府統制下の「市場」を除いて、どのような市場が望ましいのかは、人それぞれである。つまり、リバタリアン社会において、企業連合体とそれらに同意した消費者による経済共同体を望ましいとする者や、生産手段の非私有化による共同体――市場の中の小市場――を望ましいとする者は、自己所有権の範囲内で、各々が自身の信念と選好に基づいて選択すればよいのである。よって、リバタリアンにとって市場とは社会であり、小市場とは共同体である。また、「市場」は反社会的「社会」である。

 さて、では今度は民営化についてはどうだろうか。通常、「民営化」と言えば、ある部局を政府の外へ転出させるもので、株式会社の形をとることが多い。なるほど、確かに政府部局が質と量の両方において減ずることはリバタリアンにとって望ましいことである。しかし、政府が推進する「民営化」は、本当にリバタリアンにとっての民営化なのだろうか。「否!違う!」リバタリアンはそう答える。では何が違うのか。

 上述の通り、リバタリアンな市場は「自己所有権を侵害しないこと」が肝要である。よって、人々から強制的に毟り取った税金で運営されている組織による行為は不正であり、その結果生じた状況は市場の営為とは言えない。リバタリアンの云う民営化とは、「ある財産や制度が、自己所有権を侵害する集団・個人から、自己所有権を侵害しない集団・個人へと移されること」を意味する。例えば、日本国有鉄道から JRに移管された例は、政府からすれば「民営化」かもしれないが、リバタリアンにとって民営化とは言えない。なぜなら、国家による「諸立法」及び国交省との渉外によって自己所有権を侵害し続けているからだ。特に、JR北海道・JR四国・JR貨物(そしてこれらに加えて2016年までは J R九州)は「旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律」によって、「経営安定基金」が国家により指定され、その管理は省令による。これは補助金であり、税金が原資であり、自己所有権の侵害である。当然、JR東日本・JR東海・JR西日本・JR九州、そして数多くの鉄道事業者も無辜ではない。整備新幹線助成事業、都市鉄道整備助成事業、鉄道駅総合改善事業費補助、そして近年流行りの上下分離など侵害の例はキリがない。ただし、中には国家により強制的に事業の対象となり、補助金を収受「させられている」ケースもあるだろうから、リバタリアンは血眼で注視しなければならない。その他の例として簡単に付け加えておくと、「郵政民営化」によって郵便局は「民営化」したとされるが、例えば、いまだに信書の郵送は(政府の)独占業務であり、民営化しているとは言えない。

 ところで民営化はどのような過程を経て行われるべきか。政府の占有物の民営化は、大方次の方法に峻別される。早い者勝ちによる方法、被害者の調査と返還による方法、そして「合法的」方法だ。マレー・ロスバード Murray Rothbard によると、通常、政府の原資は税金であり、その不正によって得た占有物に権利はないため、政府に財産権は存在しない。もし、所有者が明確に分かるものであれば当人に返すべきではあるが、税は誰のものだったのか判別不能なので、政府の占有物だったものはそのまま取得しても構わないと考えられる(3)。よって、基本的には早い者勝ちが奨励されるだろう。また、その派生として、早い者勝ちした人が「占有物競売会社」を設立し、占有物を競売するかもしれない。これはいわゆる転売であり、早い者勝ちと競売に関して「企業家精神」が求められるだろう。この方法は闇市・ブラック・マーケットの形で、古今東西行われてきた。

 一方、ロバート・ノージック Robert Nozick は、過去の不正はすべて匡正されるべきであり、また、彼は遺産相続を認めたため(相当ラフだが、)過去に所有物を奪取された子孫は貧しいので現在貧しい人に匡正分をまず分配すべき、と考えている(4)。私は、遺産相続をリバタリアンな権利から導出できるとは考えていないため彼の主張をそのまま受け入れないが、彼の考えに依拠すると、すべての被害者と被害額を調査し、その割合に応じて占有物を分配するか、あるいは被害者と被害額が判明する度に、既に分配された人の財も含めて分配し直すことになるだろう。この方法は、誰が調査し、分配するかについて経済的な動機に欠け――もしかすると、信念溢れる人が無償で行うかもしれない――分配コストが膨大になる恐れがあるほか、過去の不正から生じた財産の余剰についてどうするのかについて論争になるだろうが、リバタリアンな権利観に合致したものだ。

 戦略として、過去の不正は一旦忘れるべきか、忘れないべきかについて、リバタリアンは窮する。しかし、私自身の考え、歴史の回顧、そして実力の問題として、まず行うことになるのはロスバード的方法であり、その後リバタリアン社会に接近・成就した際にノージック的方法に依拠することになるだろう。当たり前の話だが、政府構成員とその協力者はリバタリアンとそのシステムを大変嫌う。リバタリアン社会に到達するまでの間に、数多くの妨害があるだろう。政府が情報を秘匿することもある。ノージック的方法は、いくらユートピアンであれ、残念ながらすぐには実行できそうにない。

 最後の「合法的」方法についてはどうだろうか。これは政府自身のルールに則った形で民営化を志すものだ。もしリバタリアンが政府を統制した場合、十分可能な方法である。リバタリアンが政府に影響力を持つには、議会主義に訴えるものと、経済力に”モノ”を言わせる方法が考えらえるだろう。歴史的事実を鑑みるに、私は「合法」戦略にはあまり期待しない。例えば、かつて社会主義者が議会の乗っ取りを企み社会民主主義者化した際、社会民主主義者が社会主義者を弾圧したように、ミハイル・バクーニン Michael Bakunin の言葉を借りるまでもなく、国家主義的規則に準じる者は、下手な国家主義者よりも国家主義に興じる恐れがある。また、すべてではないかもしれないが、大企業・大資本家は政府との「良好な」関係を構築しがちなため、起業時点では純粋なリバタリアンであったとしても、事業が拡大するにつれて「巨大な敵」に転じるかもしれない。

 結局のところ、正しい民営化の方法や、「効率的」な方法は私にはまだ分からない。しかし、いずれの方法にせよ、極少数の人間の手では成せないだろう。 (前川範行)

参考

(1)
Rothbard, Murray N. (2005) What Has Government Done to Our Money? 5th ed., Ludwig von Mises Institute, p.8. 岩倉竜也訳( 2 0 1 7)『政府は我々の貨幣に何をしてきたのか』デザインエッグ社、p.13。
(2)
Rothbard, Murray N. (2005) What Has Government Done to Our Money? 5th ed., Ludwig von Mises Institute, p.36-47. 岩倉竜也訳(2017)「第12章:貨幣倉庫」『政府は我々の貨幣に何をしてきたのか』pp.40-51.
(3)
Rothbard, Murray N. (1998) The Ethics of Liberty, New York Press. 森村進・森村たまき・鳥澤円訳(2003)『自由の倫理学』勁草書房、pp.70-71, pp.219-218。
(4)
詳しくは以下を参照。Nozick, Robert (1974) Anarchy,State, and Utopia. 嶋津格訳(1994)『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社。