政治権力の考察:リバタリアン中央集権主義へ

政治権力の考察:リバタリアン中央集権主義へ

政府は必ず腐敗する

 アクトン卿による「権力は絶対に腐敗する」という格言はよく知られているが、特に政府構成員によく当てはまる。なぜか。リバタリアンならこう答えるだろう。つまり、政府が正義に反する方法で暴力と権力を独占しており、他の組織体とその構成員以上に多くの権力を有しているからだ――権力の腐敗はあらゆるセクターに当てはまるだろうが、本稿では政府と政治にその焦点を絞ろう。しかし、ある人たち――特に保守主義者とスターリン主義者――はこう答えるかもしれない、「我々ならば腐敗に陥らず、権力を適切に管理できる」と。結論から言えば、理論的にも、歴史的にもそうはならなかった。

 まず、理論面だが、政府は同意によらない資源調達(例:課税、徴兵、収用等)、つまり強盗によって成り立っており、存在そのものと行為が不正であり腐敗である。だが、不正であること以上に質が悪いのは、先ほどの人たちが、それが不正だと考えていないことにある。最早、良心が働く余地もなく不正は加速していくことになる――もっとも、不正であると認識していたからと言って、必ずしも不正が拡大しないとは限らないが。不正であるという認識がなければ、抑制機構を作り出すことも作用させることもないだろう。次に、小さな政府論者は抑制機構を作り出そうとする。だが、これは理論的にかなり困難を伴う。というのも、彼ら/彼女らには、「何が不正であり、何が不正ではないか」を判別する理論的指針がないからだ。最低限の国家福祉は望ましいが、高校無償化――実際には課税によって賄われているので無料ではない――に反対する論者は、一体何を基準にするのだろうか。

 歴史の話に移ろう。スターリン主義国家は、ぶくぶくと膨れ上がり崩壊した。以上。保守主義者はどうだろうか。彼ら/彼女らは政府を小さなままに留めることに失敗した。保守派のうち政府拡大と介入に反対するオールド・ライトはニュー・ライトに完全に打ち負かされた。一方、ニュー・ライトは経済領域において「規制緩和」を行ったが、政府の管轄業務・領域を手放さなかった。特に日本では、「規制緩和」は完全に骨抜きにされており、見せかけの「民営化」によって、政府の責任を回避しつつ、「民間」の領域を掌握する傾向が非常に強いだろう。その上、外交分野においてニュー・ライトは、戦争と武力提供に励み、むき出しの帝国主義を演じることになった。要は、政府政治のような不正な方法で生じた巨大な権力の管理は、まず不可能と判断した方がよい。彼ら/彼女らの反論として、規制を1つつくる度に既存の規制を2つ減らす「2対1ルール」や、緊縮財政のように「これ以上酷くならないように」する試みはあるが、これは、既存の政府が有する権力を維持したままにする。権力の行使のみを制限しても腐敗は止まらない。政府政治を廃絶しなければ、根本的に解決しない。

歴史の総括:リバタリアン運動の理論

 だからと言って、権力を保持しないように努めるのは愚かなことである。現代に生きるすべての人がリバタリアンとは限らない。あなたが権力の保持を諦めたとしても、それ以外の人が権力を奪取するまでである。そして良心あるリバタリアンは集約された権力者によって排外される。これがリバタリアン・アナキストの敗北の歴史の一端である。非政府政治であるブラック・マーケットを志向したコンキンらアゴリストと市場アナキストの敗北は、必然である。彼ら/彼女らは、ブラック・マーケットの最たる実行者が政府構成員であることを見逃した。政治家にとって脱税・横領はお手の物であり、「一般国民」が数百円の万引きで懲戒処分になる中、数千万円を蝕む政治家は事実上の無罪放免となっている。ブラック・マーケットが政府に乗っ取られた以上、権力を全く保持せずに社会変革を遂行するのはまず不可能だろう。

 では、リバタリアンはいかに政治権力と向き合うべきか。ここでは、左翼を参考にしてみよう。彼ら/彼女らが最も政治運動に関して考えを張り巡らし、実行したからだ。まず、議会主義が挙げられる。議会に積極的に参入し、議会内で勢力を拡大する「合法」路線がその特徴だが、議会派が非議会派を「過激・違法」として弾圧や阻害を試みることは左右に限らない現象である。それだけではない。議会で勢力を得ることは、政府政治にコミットすることである。「我々ならば管理できる」幻想は廃絶すべきだ。

 リバタリアンの議会主義運動としては、1970年代以降のアメリカのリバタリアンやリバタリアン党、リバタリアン系シンクタンク、そして悪しき融合主義が挙げられるだろう。ケイトー研究所の組織方針について、活動家の養成所を目指したロスバードと、議会主義路線を目指したエド・クレーンやチャールズ・コークの対立があった(1)。コークらは合衆国の議会制度の中で生きることを決め、ケイトー研究所をアメリカ有数のシンクタンクへと拡大させたが、現在に至るまで政府は拡張し続けている。次に融合主義だが、これは20世紀アメリカのリバタリアンにとって最大の失敗だった。アメリカにおける融合主義は、通常右派ないし保守派の政治の文脈で語られ、経済的右派リバタリアニズム、伝統主義、(社会)保守主義の三者の融合物である。当初から、リバタリアンと社会保守主義者の相性は最悪と言って過言ではなく、反介入主義・反国家主義的オールド・ライトと、介入主義・国家主義的なニュー・ライトとその「仲間」である社会保守主義はライバルであった。この政治軸での対立を棚上げにしたソフト・リバタリアンの一味が「経済的自由」の一点張りで協調を試みたのが、リバタリアンにとっての融合主義である。1970年代までの大きな政府路線から一転して台頭した小さな政府派の首領であるロナルド・レーガンとレーガノミクスは、前述のように確かに「規制緩和」をもたらしたが、決して国家の権力を削ぐことはしなかった。大企業についても同じであり、ロスバードが『新しい自由のために』(2)で述べているように、保守主義者は大企業(家)に対して無頓着である。大企業家は政府から最も抑圧されておらず、むしろ、政府の力強い「同志」として台頭し続けている。多くの補助金と特権が大企業へなだれ込み、反大企業的な新規事業の参入を政府という暴力装置をもって阻止している。リバタリアニズムそれ自体は大企業の存在そのものに対して異議を唱えない可能性もあるが、歴史上、大企業がリバタリアンの敵として振る舞っていることは無視できない。いずれにせよ、ソフト・リバタリアンや保守的リバタリアンらが主導した、保守主義者・大企業家との同盟は唾棄すべきものである。

 次に、テロリズムがある。これは、既存体制・秩序の(総)破壊によって、新秩序の到来を確実にするものである。リバタリアン社会主義者に多くみられたこの戦略は、端的にうまくいかなかった。破壊に失敗した上に、多くの人々の協力・理解を得ることができなかったからだ。また、個人を暗殺したところで、組織は簡単には解体され得ない。<政府vs数人のアナキスト>のように、組織力に多大な差がある状況では、暗殺/弾圧の闘争はテロリスト側がジリ貧になることが容易に想像される。また、政治的な単語としての libertarian が生まれる経緯の1つに、アナキズム=破壊的で過激、というイメージの払拭にあるのだから、テロリズムへ回帰することは、リバタリアン思想の放棄である。

 4つ目は――1つ目はブラック・マーケットだ――実力=暴力=権力の行使、直接行動である。議会主義との違いは、闘いの場が議会に限らず非議会に及ぶことであり、テロリズムとの違いは、既存体制・秩序の破壊のみに固執しないことであり、ブラック・マーケットとの違いは、経済領域に留まらないことだ。つまり、「合法・違法」、「議会・非議会」を問わず、既存体制の破壊のみならず新体制の創設を志向し、政治領域にも注力する行動である。ここで多くのリバタリアンが次のように問う、「それはリバタリアニズムに反するのではないか」と。ここでは、まず2つの確認が必要である。1つは理想理論と非理想理論の峻別、2つ目は非理想状況における評価の方法である。理想理論と非理想理論の峻別がなければ、「手段と目的が一貫した」ブラック・マーケットに至るだけである。そもそも、理想が現在の社会でも通用するのであれば、それは理想が達成されている証拠であり、理想を掲げて活動する意味はない。そういう訳で、定義上、非理想状況において完全な理想は想像上の産物でしかない。非理想状況では理想は達成されておらず、理想は不十分なのだ。では、非理想状況では、どのような評価方法がなされるのか。理想は、理性や議論によって導かれるが、不正が混入する非理想状況はそういうわけにはいかない。利害対立が噴出しており、各自が理想を合致させることが困難だからだ。そのような状況では、単純な対話だけでは限界があり、理想的ではない方法をとらざるを得ない。この実力行使の判断は、理想をいかに実現させたのかに限る。当然、これは定量的ではないことが多いだろうから、困難を極める。指標を設定するだけでも大論争が起こるだろうし、評価とその基準を巡って、新規案の提案以上に、過去の行動の総括に資源を多く割くことになるだろう。

リバタリアン中央集権主義

 上述のような実力=暴力=権力を核にした直接行動は、各人の個人的行為で完結するだろうか。おそらく、そう考えるのはあまりにも楽観的すぎる。人間行為がもたらす人類の富の蓄積を思い出そう。人間行為は個人のみで完結し得るが、複数人による交換・分業の過程を経た方が限界効用の作用によって、より多くの果実をもたらす。ではなぜ、経済的な事柄に関してのみ交換・分業の過程を用い、政治的な事柄ではそうしてはいけないのだろうか。政治的リバタリアンは政治行為においても人間行為と交換・分業を適用する。リバタリアンが言う”交換”は、交換する主体全員の同意を原則とする。交換を拒絶する人は交換関係に参与しないし、参与を強制されない。この原則を聞いた多くの読者は次の疑問が生じることだろう。「すべての事柄の同意が必要であれば、実質的に組織は存続しないのではないだろうか。また、そもそも、組織というヒエラルキー的社会構築物がリバタリアンの原則に反するのではないだろうか。」

 まず、前者だが、可能性として存続し得るという回答が考えられるが、これは疑問者・批判者への回答にはなってないだろう。なぜなら、ここでは、”実質的に”組織が存続するのかということが問われているからだ。確かに、個々具体的な事柄に関して同意項目を設ける場合、すべての同意が組織に必要である。しかし、次のような同意を交わすことで回避可能と考えられる。それは、「組織の名で生じる個々具体的な行為に関して不同意が生じたとしても、私は組織の方針に従う。ただし、組織から離脱する自由が私には存在し、また、組織からの離脱時に、組織から私に対する制約を解除する」という同意事項だ。この内容は、自己所有権や自由意志に反していないし、自己奴隷化契約と異なり、組織から離脱する自由――非組織人に復帰する自由――がある。これに反する人たちは、事実上組織を形成することはできず、政府に各個撃破されるだけである。

 次に後者だが、リバタリアンはヒエラルキーそのものを否定しない。否定するのは自己所有権が脅かされる場合のみだ。アナキストはヒエラルキーを拒むかもしれないが、交換にヒエラルキーはつきものである。というのも、交換は等価交換ではなく、不等価交換ゆえに生じるというのがオーストリア学派経済学のテーゼだ。全く同じモノを交換する者はいない――ただし、この世に全く同じモノが存在するかは議論の余地がある。不等価な評価、それも主観的な評価は、必然的に情報の非対称性が生じる。「そのような経済理論は誤りである」と断言する者のために付言すると、最たる困難は教育にある。教育は必然的に非対称性を伴う。その非対称性から生じるヒエラルキーはどのように対処するのだろうか。教育を捨てることはまずできない。ヒエラルキーそのものは、人類が引きずる枷である。

 以上のような組織方針を、かつてレーニンらボリシェヴィキ――その思想的源泉はバクーニンにある――が考案した民主主義的中央集権制(民主集中制とも言う)に倣って、リバタリアン中央集権制 libertarian centralism と名付けよう。リバタリアン集中制の特徴は以下の通りだ。①リバタリアニズムの原則に忠実であること、②人数の多寡よりもリバタリアニズムを優先すること、③組織内分業と指導が可能であること、④組織が主体の行為が可能であること。①の内容は既に述べたので②から始めよう。②は、一見飛躍に見えるかもしれないが、リバタリアン集中制がリバタリアニズムに依拠して設立した以上、必然的に演繹される。人数の多寡によって設立してはいないのだ。③は、リバタリアン的人間行為の必然的帰結である。つまり、経済的目標を抱える組織と同じである。④は、非リバタリアンにとってはあまりにも当然のこととして、首をかしげるかもしれない。しかし、これはリバタリアンの最たる弱点を補うものなのだ。リバタリアン(そしてアナキスト)は、組織を主体とする行為が大変苦手である。多くのリバタリアン・アナキストは「組織>個人」という事柄を容認できないため、組織形成を諦めてしまうのだが、リバタリアン集中制はそれを容認する。

 リバタリアン集中制はどのリバタリアン組織でも適用可能だが、革命組織と大衆組織の2つの組織がある場合、主に革命組織に適用するとよいだろう。というのも、すべてのリバタリアン革命組織は意識的なリバタリアンによって構成されるだろうが、すべてのリバタリアン大衆組織が意識的なリバタリアンによって構成されるとは限らないからだ。リバタリアン集中制の運用は、個々人のリバタリアンの自由意志に委ねられている。

 補足的に、民主集中制とリバタリアン集中制の差異は次のような点を挙げておこう。①組織の原理がリバタリアニズムに則しているか否か。歴史上、著名な民主集中制組織のほとんどは、左翼系組織であったため、最終目標が社会主義ないし共産主義であったが、民主集中制それ自体は、多くの思想で適用可能だろう。そのような「柔軟な」民主集中制と異なり、リバタリアン集中制はリバタリアニズムの原則に忠実である。読者は「組織目標と組織の運動教義は別物として取り扱えるのではないだろうか」という疑問が生じたかもしれない。確かにその通りだが、民主制は「多数であること」が至上命題である。よって、民主制によって組織目標が覆される可能性を常に孕んでいるが、リバタリアン集中制は、反リバタリアン的方針が多数であったとしても棄却される。もし、それによって、実質上組織が半壊したとしてもだ。②民主集中制は民主的であることを貫徹できない可能性があるが、リバタリアン集中制はリバタリアニズムを貫徹できる。もし左翼党派が民主集中制を採用していたとして、民主的に「資本主義を肯定する組織に改編しよう」という意見が多数派を占めた場合、単純に民主集中制に貫徹すると当該左翼党派は様変わりしてしまう――もっとも、そのような意見が多数派の左翼党派は組織として死に体だろう。一方、リバタリアン集中制は、反リバタリアン的意見が多数派を占めたとしても、多数派意見を棄却できる。③組織方針の理由が明確化される。民主集中制の場合、多数派意見であれば確固たる理由がなくても採用され得るが、リバタリアン集中制はリバタリアニズムに則していなければならないため、単純に人数の多寡を理由に正当化できない。法 law がそうであるように、組織構成員にとって理由は明快な方がよい。

おわりに

 リバタリアン中央集権主義は、まだ実践的ではないし、成熟した理論ではない。今後も絶えず改良されることだろう。

(前川 範行)

参考文献

(1)

Bessner, Daniel (2014), “Murray Rothbard, political strategy, and the making of modern

libertarianism,” Intellectual History Review, Vol. 24, No. 4, p.449.

ロスバードは、1980年のリバタリアン党の大統領選挙を巡ってコークらに追放され、ミーゼス研究所設立に繋がる。

(2)

Rothbard, Murray N. (1978), For a New Liberty: The Libertarian Manifesto, 2nd ed., Ludwig von

Mises Institute. 岩倉竜也訳(2016)『新しい自由のために』デザインエッグ社、pp.337-339。

【あとがき】

ver. 1.0 公開(2024年2月3日)

ver. 1.1 公開(2024年2月4日)
誤字を修正しました。