書評『リバタリアンが社会実験してみた町の話』

【編集による注釈】
 この記事は、Matthew Hongoltz-Hetling (2020) A Libertarian Walks Into a Bear: The Utopian Plot to Liberate an American Town (And Some Bears), PublicAffairs. 上京恵訳(2022)『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』原書房。の書評である。
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 ある日、市街地で熊を見かけたとしよう。どうやら食べ物を求めて山を下りてきたようだ。あなたならどうするか。まさか熊と格闘しようなどとは思わないだろう。狩猟するにも資格と許可がいる。たいていは警察か役所に連絡して駆除してもらおうと考えるのではないか。しかし、残念ながら動物の撃退は行政の仕事の範疇を超えているので、基本的には何もしてくれない。結局は地元の猟友会や専門業者が駆除に駆り出され、その手当は税金から支払われることになる。一般市民は獣害において自らの身を守ることさえできず、対策に関しては行政におんぶにだっこの状態なのだ。リバタリアンならこの状況を見てこう憤慨するに違いない。「なぜ自由な狩猟が許されないどころか、それにかかる税金をわれわれが負担しなければならないのか」と。では、彼らならどうするか。

 本書の舞台は、アメリカ合衆国北東部に位置するニューハンプシャー州である。ここは1776年のアメリカ独立宣言に先んじて独立を果たした州の一つであり、独自の州憲法を制定した最初の州だった。銃規制は緩く、シートベルトの着用義務はない。固定資産税は高く設定されているものの、売上税や所得税はかからない。伝統的にリバタリアンが多いことで知られている。遡ることおよそ20年、4人のリバタリアンが州西部の町グラフトンに移住し、リバタリアン思想を主流にしたアメリカ初のフリータウンを作ろうと考えた。これがフリータウン・プロジェクトの始まりである。なるほど、「自由な生か、もしくは死」(Live Free or Die)をモットーとするこの州に、フリータウン信者がユートピアの建設を考えたのも不思議ではなかろう。しかし、彼らには大きな誤算があった。この町には先住者がいたのだ。そう、熊である。フリータウン・プロジェクトはその表向き魅力的な計画とは裏腹に、当初から窮地に陥っていた。本書では、その顛末が臨場感あふれる文体で描かれている。

 事実は小説よりも奇なりとはこのことだ。いったい誰が家のなかで突然熊に襲われようなどと思うだろうか。誰が隣人による熊の餌づけ行為のせいで警察に通報するはめになるなどと考えようか。そして、フリータウン・プロジェクトが最終的にその頭越しに台頭してきたフリーステート・プロジェクトに取って代わられようなどと誰が予測しただろうか。およそ笑い事ではないが、つい失笑してしまうような珍事が次々と起こる。しかし、誰も何も咎めることはできない。なぜなら、すべては「自由」を守るために行ったことなのだから。

 リバタリアニズムは魅力的な政治思想だ。急進的だが単純明快でなかなか興味深い論理を備えている。しかし、それはあくまで思想家たちの頭のなかで紡ぎあげられてきた理論に過ぎない。実際にリバタリアンたちが集まってコミュニティを形成し、リバタリアン思想を実践したらどうなるのか。図らずも、フリータウン・プロジェクトのおかげで、まさに一つの町を巻き込んだ社会実験が実現したのである。この本からリバタリアンが得る教訓があるとすれば、自由を求めているのは自分たちだけではないということだろう。実際、フリータウンに住む人々は、程度の差こそあれ皆それぞれ何らかの自由を欲していた(リバタリアンが「国家統制主義者」と糾弾した人々ですら、少なくとも熊からの自由を望んだことだろう)。そしてグラフトンの熊たちもきっとそうに違いない。ある思想にもとづいた政治基盤を整える際に必要なのは、理論体系の堅固さではなく、有象無象を快く迎え入れられる懐の深さなのかもしれない。

(阿奈城なき)