歴史から理論へ…
Q:多くのリバタリアンたちが、自由を求める青年アメリカ人(YAF)のセントルイス大会中にリバタリアン運動の誕生を捜し求めた。あなたは参加者の一人でしたが、そこで何が起こったのか教えていただけませんか?
SEK3:アメリカ青年にとっての1960年代の主要な課題は、ベトナム戦争と徴兵、ドラッグの合法化、そして異議申し立ての自由だった。リバタリアンは新左翼(例:SDS)とこれらのすべての課題について合意し、YAFを統制した伝統的保守主義者(”伝統派 trads”)に敵対した。YAF初代議長のボブ・シュークマン Bob Schuchman はリバタリアンで、ほとんどの構成員がウィリアム・バックレーと『ナショナル・レビュー』を同一視したにもかかわらず、「青年保守主義者」とは言わず、自由を求める青年アメリカ人と呼称した理由はそのためだ。したがって、多くの青年のリバタリアンはYAFに引き寄せられた。1969年初頭に、伝統派は、リバタリアンだけではなく、他の右翼に対するパージを起こした。客観主義者(24)、差別主義者、親ナチ派、ウォレス支持州(25)、そしてローマ・カトリックの急進的伝統主義者 Rad Trads は、彼らが統制していたすべての場から追放された。東海岸とカリフォニアでは、そのようなパージは主にリバタリアンの支部が対象であり、セントルイスでの、彼ら自身の信任のための戦いのために全国大会で、伝統派が現れた。伝統派は彼らの「保守主義とリバタリアンな外観」アプローチを終わらせ、約200のリバタリアンの代議員(パージ前は1000人中、おそらく500人はリバタリアンかその他の全国大会事務局の反対者にだっただろう)のみを認可した。私のように、何人かは、忠実な支援者として、後に全米委員長になるデイヴィッド・キーン David Keene (26)によって選出されたが、ローラバッカーとペンシルヴァニアYAF(後のSIL設立者)のドン・エルンスベルガー Don Ernsberger (27)から事情を聞いて、転向した。
(今なお私の親友である)ジェアード・ロブデル Jared Lobdell は重要な徴兵問題への妥協案の構築を模索していた。しかし、彼の委員会報告後のやり取りの間、(20人もいなかったうちの独りの)ロスバード派のアナキストが、自身の徴兵カードのコピーと思われるものに火をつけた。
(投票を先導するデイヴィッド・キーンとジム・ファーレー Jim Farley らの)全国事務局はたやすく勝利し、リバタリアンはYAFから追放された。しかし、州ごとに差異があった。例えば、(当時私の拠点だった)ウィスコンシン州では、親しかったキーンとロブデルによってパージからいくらか保護された。そして、ダナ・ローラバッカーは(キーンが失った)州上院のデイヴィッドの選挙運動のためにウィスコンシンに来たが、実際には、ウィスコンシン大学マディソン校支部を滅亡させた。我々のうち3人が自ら去り、ウィスコンシン大学リバタリアン連合を結成するため、1969年の後半に3人のイッピー(28)が結集した。しかし、数百ではないとしても、北部アメリカ中の大学でこれに類似した話は数十程度だった。どの大学も1970年の秋にリバタリアン連合(あるいはSIL支部)になっていた。その翌年から4年間、2つかより多くの主要なリバタリアン会議が毎年東海岸(ニューヨークかペンシルヴァニア)や、西海岸(ロサンゼルス)であり、すべてが「リバタリアン libertarian (29)」党に先だった。
Q: 新しいリバタリアン党の初期の課題の1つに、あなたがデイヴィッド・ノーラン David Nolan (30)と、リバタリアンの理想を裏切る彼を訴えるために、議員への立候補の背後にある道徳的なことがらについて討論をしましたが、数か月後にあなたはニューヨークの自由リバタリアン党 Free Libertarian Party に参加したことに着目します。唐突な見解の変化だったのか、あるいは、内部から党を破壊しようとしたのですか?
SEK3: 実のところ、我々の出版物において、早々にそうしたのではない。それは、1972年の、第17号においてであり、NLN(31)をレッセ・フェールの本からつまみ出した。なぜなら、1870年代のライサンダー・スプーナー Lysander Spooner (32)とトーマス・べヤード上院議員 Thomas Bayard (33)のそれを、我々のやりとりと比較することを私は「冒した。」
(カリフォルニアに移住する前に)ニューヨーク・リバタリアン党の初代議長のエド・クラーク Ed Clark (34)は自由リバタリアン党 Free Libertarian Party (35)――と呼ばれるのは、ニューヨーク・自由党 Liberal Party (36)が投票券を混乱させたとして、LPを訴えると脅したからだ――をジェリー・クラスマン Jerry Klasman (37)に引き渡した。ジェリーは自由リバタリアン党の幹部会議に私を招待した。私が党を信じておらず、また党の消滅のために働くと彼に伝えたとき、彼は「ああ、いいよ」と言った。1973年に、私はあらゆる立候補者の中で最多投票をもって再選されたが、他の急進派の立候補者を議員にすることができなかった。(次点は当時の私のガールフレンドで、後に、一時的に私の初めての婚約者となる、ノナ・アギュラー Nona Aguilar だ。)1974年までに、「アナルコ・中道派 Anarchocentrist」のマンハッタン・マシーン(38)に対するアップステートの改革主義者との連合で、自由リバタリアン党の統制の勝利を成し得た。我々が(急進派で)最も望んでいなかったことは組織の権力を獲得することで、それゆえに、私と中核を成す数人(私は以下のことを認める、つまり、私の同志のうち数人は権力に留まり、権力のために努力ようと誘惑に駆られた)は、会場に入ることと投票を拒否した。我々は外で座り込み、NLNを売った。
基本的に、私は政党政の内在的矛盾を説明した。私は単に、国家が望んでやることと同じように、リバタリアン党がそれ自体の構造の権威の弱点と分権化の戦術を適用することを要求した。ロスバードとガリー・グリーンバーグ Gary Greenberg (39)は、リバタリアン党が規律ある幹部を有し、組織内での口論(例:ディベートや異議申し立て)の最小化をすべきだと主張する中央集権主義者の先駆けとなった。あまりにも奇妙だが、私のアプローチは、彼らのレーニン的戦術よりもリバタリアンたちに訴えかけたと思えた。
マレー・ロスバードはもはや制御できない混沌を苛立ちながら眺め、彼は会場の開かれたドアを通して私に指さしてこう言った。「彼はここで何が起きているのかを理解できる唯一の人なのか?」
自由リバタリアン党を去る前に、我々はダラス全国大会への代議員資格を獲得していた。というのも、我々はそこで戦術を試すのを決めたからだ。我が急進派代議員とエリック・スコット・ロイス Eric Scott Royce (40)の代議員(我々は改革派と呼んだ)が、ノーランのマシーンに対抗するために連合した。だが、ノーランは既にエド・クレーン Ed Crane (41)の制御を逸していた。クレーンは容易に勝利した。その時点で、(2人の裏切者を除いた)急進派はリバタリアン党から未来永劫離れ、数人の改革派を引きつれた。その中には、本日、私の出版物のために書いているロイスも含まれていた。
Q:1971年に、あなたがミルトン・フリードマン Milton Friedman (42)との論争を行う間、「自由共謀コロンビア・リバタリアン会議 Freedom Conspiracy’s Columbia Conference 」の共同代表でした。論争を行った理由は何ですか?
SEK3:ミルトンおじさん(43)は書面上でいくつか質問を受け付けた。なので、私はカードに書いた。1. あなたは所得税の源泉徴収の成立に何か関係していたのか?2. もしそうなら後悔するか? 3. もしそうなら、同じことを繰り返すか?
驚いたことに(そしてここでは彼を誉めよう)、彼はカードを読み、単刀直入に回答した。彼が意見を表明するのに驚いた(彼は明らかに保守主義者であり発展途中の急進的リバタリアンではなかった。)フリードマンは以下のように回答した…
1. はい、私がアイデアを提案したとき第二次世界大戦の最中でした。戦費調達のために、より早く国家に貨幣を集めるためのものでした。2. いいえ、後悔していません。戦争で正当化されるためです。3. はい、同じ理由によって、繰り返すでしょう。
フリードマンはその後意見聴取のについて、ほぼ全員を混乱させた。そして、フリードマン主義は1971年のリバタリアン運動 Movement の善性によって粉砕された。ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼスと彼の門下生であるマレー・ロスバード、そしてオーストリア学派は今日まで揺ぎ無く君臨している。
Q:その会議以降、多くのリバタリアンは、リバタリアンの理念と両立するのが不可能なシカゴ学派(44)や新古典派経済学(45)をしばしば拒絶します。その学派と提携する幾人かは、いまだにアナキストです(例:デイヴィッド・フリードマン David Friedman (46)、ブライアン・キャプラン Bryan Caplan (47)。)彼らが存在するのはやや厳しすぎるのではないでしょうか?
SEK3:NO。シカゴ学派の経済学者が単純に国家に寄与する効率性の専門家だと、ロスバードは立証した。最悪のケースは、アウグスト・ピノチェト(48)に仕えるチリの「シカゴ・ボーイズ」と、革命的シオニスト(つまりファシスト)のメナヘム・ベギン Menachem Begin (49)のために働くイスラエルのボーイズだ。
Q:あなたが1970年代にニューヨークに住んでいたとき、ロスバード夫妻の家に毎晩議論に行く理由はありましたか?
SEK3:実際、非常に楽しかった。運動 Movement が「マレー・ロスバードの居室」から既に拡大していたにもかかわらず、いまだに、初期の運動 Movement で、最も「中枢の」場だった。
Q:我々が知るように、ロスバードの本質はやや乱暴で、彼はリバタリアン運動 movement の分裂の原因となった多くのことを述べた。彼との協力にはどのようなものがありましたか?
SEK3:実際、ロスバードは個人的な仲違いについて責任があることはめったになかった。彼はかなり物腰柔らかな人だった。彼の話し方は、私がNLNで書いたが、ウッディ・アレン Woody Allen (50)のようだが、経済学者の傾向もあった。(ところで、アレンは自由市場ではないタイプのアナキストだ。)当初、私が参加するまで、彼はひどくリバタリアン党への参加を拒否した。私は、ルフェーブルの政治に対する原理的な攻撃に多く依拠した。ロスバードは以前、反政治的なエッセイを書いており、フラン・ヤングスティンの選挙運動の間、彼がリバタリアン党を受け入れたことに私は驚いた。もしかすると、若い専門家、特にフランや彼女の友人のような活動的な女性を迎える新たな方法を彼は思いついたのかもしれない。(ヤングスティンはIBMに勤めていた。)当時、いわば、ランドとブランデン(51)、ルフェーブルとサイ・レオン Sy Leon (52)、あるいはガランボスとジェイ・スネルソン Jay Snelson (53)のような個人間のいざこざは起きなかったが、私はイデオロギー的に分裂した。ロスバードは個人崇拝が生み出されることに積極的に反対した。私が依頼すると、彼は書き続けてくれて、[エド・]クラークの破滅的選挙運動後の1980年に、反コクトパス Kochtopus 同盟で一致した。クレーンがケイト―研究所 Cato Insitutute (54)でマレーの株を抜きぬいて事実上追放したとき、『ニュー・リバタリアン・マガジン』の株を彼に提供することで、私は彼を支援した。また、私が以前述べたように、1985年にアゴリスト・インスチチュートの初代アドバイザーになった。
我々は1990年の選挙ですぐに一致した(彼は1988年にリバタリアン党と永久的に断絶しており、新しいパレオ・コンサバティブ Paleoconservative (55)同盟を遂行していた。)が、1992年から1995年に彼が亡くなるまで絶縁状態になった。
Q:晩年のロスバードはリバタリアン運動 Libertarian movement だけでなく、リバタリアン理論 Libertarian theory そのものを放棄した主張する人たちがいます。あなたは転向していないと思いますか?
SEK3:マレー・ニュートン・ロスバード博士はいつも、戦略と戦術の両方に関して、最大限の許容範囲を認めた一方で、彼が正統なリバタリアニズムの「垂直線」と呼ぶものを切り倒していた。パレオ・コンサバティブと「パレオリバタリアン(56)」から彼の青年期のオールド・ライト Old Right (57)連合を再構成する努力に人生を費やしたのは事実だが、彼はリバタリアンの諸原理について何の根拠もないと主張した。1950年にアナーキーの受容から、1957年に『ナショナル・レビュー』から彼が追放されるまで、彼は右翼の一派だった。彼は主に左翼によって行われた反原子力人民戦線に参加したため追放され、共産主義(邪悪でそれは…大きな政府だから)と戦うのに不可欠なように、大きな政府を受け入れた反帝国主義の「新右翼」を非難した。彼自身は無神論者だったにもかかわらず、彼は、プロテスタント的なキリスト教の信仰を[アイン・ランドが]彼の妻に辞めさせるよう圧力をかけるのを断ったため、客観主義者から追放された。
彼は1960年代の間、熱意をもって新左翼とうまくやり、アナキストたちがSDSやすべての重要な組織から追放され、毛沢東主義者とスターリン主義者の変異体が小さなグループの統制をめぐって戦うようになったことが明らかになったとき、新左翼から去った。彼はリベラル・リパブリカン(通常リバタリアンと保守主義者の両方から嫌われている)であるマーク・ハットフィールド Mark Hatfield (58)が1972年の選挙で出馬を取りやめるまで、支援を検討した。彼はそれまで優先的に反戦的な民主党と共闘していたにもかかわらず、彼はマクガヴァン以上にニクソンを支持するのをやめた。
彼はリバタリアン党をその設立時から反対したが、それは主に戦略的理由からだった。彼はリバタリアン党を運動史のこの段階において「時期尚早」と考えた。彼の多くの活動家の友人たちの中には、党の表面的な通俗性を見た後に、彼が党を受け入れたとき、彼はリバタリアン党への考えに基づいて党を形成しようとした。レーニン主義的な厳しい規律のある幹部モデルによってだ。その方法はリバタリアン党(と当然党の外部にいる多くの人々)の90%にとってパッとしないもので、(後に失うが)1988年に彼の立候補が拒否されたとき、彼はパレオ・コンサバティブを組織したトム・フレーミング Tom Flaming を歓待し、彼と親友になった。これは1992年にパット・ブキャナン Pat Buchanan が党の立候補の経済アドバイザーになったときまで続いた。彼は1996年の選挙前に亡くなり、ロスバード亡き後、ブキャナンは堅硬な保護主義経済と、ほとんど社会主義者(黒人・女性)の仲間たちを捨てた。
Q:1975年、3週間の旅行のあと、あなたはニューヨークからカリフォルニアに移住することを決めました。旅行中に広まった数々の伝説があります。どのようなものか教えていただけませんか?
SEK3:率直に言うと、ジャック・ケロック Jack Kerouac (59)の話で、なんでもありだった。我々4人と我々が持ち出せた物は、トヨタ車に詰め込んだ。私はドライブが好きではなく、オレゴンに到着したとき(このとき一直線ではなかった)他のメンバーはとても疲れていたので、私が帰るべきだという意見にみんな賛同した。約3時間オレゴンの広大な長さを横切り、彼らはもう二度とドライブをしないと私に言った。
我々は初めてのリバーコン Rivercon (SF大会)の地であるケンタッキー州のルイスヴィレに止まり、オレゴン州のポートランドでリバタリアンSFファンのリチャード・E・ゲイズ Richard E. Geis (60)のところに訪れた。我々はマーリン郡で迷子になり、最も朦朧とした時間だった(完全に小説や映画、シリアル・キラーのようだった)。そして、広大な西海岸から、ダナ・ローラバッカーが我々に見繕ってくれた集合住宅のあるロサンゼルスへ向かった。
我々の総意として、もう二度とそこへ行かないと決心したが、通過儀礼として思い出させる。少なくとも私にとって60年代的精神から断つ時であり、最終的には、1975年から1990年にベルリンの壁が崩壊するまでの間、長きにわたる不定形の時代への突入だった。
Q:西海岸へ到着後、あなたはアナルコ・ヴィレッジと呼ばれる場へ複数人の集団で向かいました。その名前に何が隠されているのか教えてもらえますか?
SEK3:異なる人々は異なる焦点を持つ。第一に、『ニュー・リバタリアン』を毎週発刊するために(ああ、君がそう聞いたのは正しい、毎週忌々しくも、101の議題のうち2つを除いてだ)1975年12月から1978年2月までの間、「労働資源」としてだ。10の集合住宅と1つの一軒家があり、ピーク時には、集合住宅の8つを我々が持ち、一軒家をリバタリアンたちが占拠していた。2人の保守主義のSFライターもまたそこに住んでおり、一人は我々と議論をするために移り住んだ。SFを執筆するためにそこを保持した古老のクエーカー教徒のSDS活動家は、我々が移住したことを発見し、我々に加わった。
その集合住宅に女性はひとりもいなかったが、何人かは足繁く訪れ、別の何人かは異なる男性たちと移住し、そのようなことが時折続いた。特にある一人は、立ち去る前に我々の90%と事を成した。
また、ゲイっぽい人もいた。数年間事実を知られなかったにもかかわらずだ(上述のように、最も乱交的な女性が彼のことを暴露した。)彼は集合住宅の管理人で、我々に集合住宅を与えた張本人であるダナ・ローラバッカーの友人だった。
Q:現代的なリバタリアニズムはカウンター・カルチャーに対して非常にルーズに結びついているように見えます。常にそうではない何かしらのことを私に教えてください。
SEK3:ふうむ。いい答え方がないな。私が教えることができる限り、カウンター・カルチャー Counter-Culture に帰するものは、ほとんど広範にリバタリアンだ。最新のサイバー・スペースオタクの「オルタナティブ・カルチャー」はリバタリアンではなく、徹底的なアゴリストだ。ヒッピーのカウンター・カルチャー counter-culture はリバタリアンの原理を認知しておらず(『退廃の礼賛 In Praise of Decadence 』のジェフ・リッゲンバック Jeff Riggenbach (61)を見よ)、最初の良心的な「左翼リバタリアン」であろう(「リベラル・イノベーター」の編集者である)ケリー・ソーンリー Kerry Wendell Thornely (62)から、筋金入りの右翼のダナ・ローラバッカーに至るリバタリアン活動家は、ヒッピー・カウンター・カルチャーを好んで受け入れた。もう1つの有名なオルタナティブ・カルチャーである、SFファンダムは(ハインライン、アンダーソンの)認知されていないリバタリアニズムから、露骨にそれを受け入れたり支配的すぎるとして批判したりすることへ移り変わっていった。
もしかするときみは、現代のリバタリアン運動 Libertarian Movement が全面的にカウンター・カルチャー counter-culture ではなく、昔はよりそうだったということを含意しているのかい?実際それは、(ロスバードや君が想像できるようなまともな人 straight のような)現在の文化を広く受け入れる人々と、代替的な提案が相当拡大しているにもかかわらず、諸代替案を受け入れる人々とよく似た分断だ。どちらかと言えば、私は以下のように言うだろう。前支配的文化の拒否は、1960年代のそれよりも大きくなったが、はっきりとはしていない。企業勤めのスーツ姿の男(と今は女)が、麻薬を吸いに帰宅し、反体制分子とオンラインチャットをし、週末に「オルタナティブ・ライフスタイル」大会を開いたり、ボタンがつけられた黒旗を見るためにスーツの襟を折り返すのは、普通のことだ。この「両方の方法をスイングする」態度は明らかに、ポスト60年代的であり、若い世代にとって全く普通のことだ。
次回、「理論から実践へ…」
(前川範行)