リバタリアン・ユートピア-4-婚姻制度廃止

 リバタリアンな社会がどのようなものかを想像できなければ、リバタリアニズムに賛同することは難しいだろう。従って、本稿では理論よりも、リバタリアンな社会に存在し得る社会(小市場)の記述に重点を置く。「もしかしたら、こういう社会もあるかもしれない」程度に考えていただければ幸いである。

 本稿では婚姻制度について想像する。

 リバタリアンは婚姻制度に反対する。第一に、国家による婚姻制度は税金によって維持されているので、自己所有権に反する。第二に、国家が、特定の価値(異性愛的一夫一妻関係)を承認し、特権(法的権利)を付与することは恣意的な介入だからこれも許容できない。異性愛を、同性愛や友愛、複数人の連帯に対して優遇する理由はない。従って、リバタリアンな社会では、婚姻制度は存在しない。

個人間の関係

 では、リバタリアンな社会では、皆がバラバラの原子的個人(1)として生活するのだろうか?そうとは限らない。現に事実婚という言葉があるように、法律婚でなくとも、人々は自由に共同生活を送っている。リバタリアンな社会では、現行法と違って、同居義務はない(2)。異性愛の夫婦もいるだろうし、同性愛の家族も、一夫多妻、多夫一妻、複数婚、その他様々な形態の家族がいるだろう。もっと言えば、親愛の意味での「兄弟」や「姉妹」、「ファミリー」や、ヤクザ的な「ファミリー」「兄弟」も、我々「日本人」もある意味家族である。

 「いやいや、それじゃ家族の意味がないじゃないか!」では、結婚の意味とはなんだろうか?子供を産み育てることだろうか?精神的・肉体的な結合だろうか??税制優遇だろうか?別に、全ての法的夫婦が子供を育てているわけでも、愛し合っているわけでも、性行為をするわけでもない。もちろん、損得勘定(税制優遇)に基づくわけでもない。反対に、育児や精神的安心、肉体的快楽、金銭のために結婚している人もいるだろう。一般化して言えば、「私たちは家族だ」と考えていることが家族の条件と言えるかもしれない――恋人や友人関係が「私たちは恋人だ」「私たちは友人だ」という合意のみで成り立っているのと同様に。リバタリアンな社会では、連帯関係の意味・目的は各自に委ねられる。

 では、市場において家族的連帯は無価値なのか?そんなことはない。人々が「家族」に価値を見出す限り、その人々にとって価値がある。現行制度下でも、民間のサブスクリプション・サービスや各種保険などの分野で、いわゆる「家族割引」が提供されている。リバタリアン社会では、血縁関係や婚姻関係を重視する「家族割引」と、より制約の少ない「家族割引」や「友人割引」「恋人割引」「複数人割引」サービスは競合するだろう。これらのサービスの内容は、需要と供給によって決定される。そもそも、これらの民間サービスに依拠する必要すらなく、自分達の価値は自分たちで(主観的に)決められる点に注意されたい。

 もしサービス提供者が、いわゆる「伝統的家族」を重視するなら、消費者に血縁関係を証明する書類の提出を求め、割引を実施することができる。その認証は相対的にコストがかかるので比較的高くつくかもしれないし、サービスの共有を防ぐことで企業は利益を得るかもしれない。一方で貧乏な学生は、より自由度の高い「友人割引」を好むだろう。観覧車やデートスポットでは「恋人割引」の特別感が好まれるだろう。「恋人割引」サービスの提供者は、異性愛関係のみを対象とすることもできるし、同性愛関係を対象にすることもできる。

 おそらく「恋人を独占したい!」「束縛したい!」という需要が存在するだろう――それが自由の観念と両立するかはともかく。この人は現在と同様に、恋人とカレンダーや位置情報を共有することができる。2人の愛を証明する愛の試練サービスが現れるかもしれないし、神社・教会・ブライダル企業が民間婚姻サービスや、きらびやかな披露宴サービスを提供するかもしれない。

夫婦同姓と夫婦別姓を超えて

 婚姻制度におけるもう一つの重要な論点として「夫婦同姓」の問題がある。リバタリアンな社会では、戸籍制度や住民票、マイナンバーなどは存在しないので、各個人は自由に自分の名前を変更することができる(4)。従って、「夫婦別姓」どころか「夫婦創姓」も可能である。

 もっとも名前は、それまで培ってきた信頼や実績が伴っているだろうから、安易に変えられるものではないだろう。各人は企業と契約して、個人IDなりマイナンバーを発行するかもしれない。ネット社会に生きる我々は、普段から様々な名前を使い分けて生活しているので、名前の同一性など些細な問題かもしれない。むしろ、現行制度下においても、あだ名や芸名、ペンネームは知っているけど「本名」は知らない、といったことはザラである。しかも我々は、ネットで物を買う時、相手の名前を知らずに購入している。実際のところ、ブラックマーケットにおいては、消費者は相手の名前すらも知らずに日常的な取引を行なっている。これは、口コミなどの情報によって、安全性が推定されるからである――商売では信頼が大事なのだ。匿名契約の技術はさらに発展していくだろう。

子供の権利

 次に、子供の立場はどうなるだろうか?リバタリアンな社会――あるいは自己所有権――には親権なるものは存在せず、親は扶養義務を負わない(5)。ただ、基本的には、親は子供を扶養するだろう。現行制度下においても「親権があるから」子供を扶養している、という親は少ないと思われる。

 もっとも、リバタリアンは性善説に立つわけではない。子供を売買する親や、放置する親、稼ぎ頭としてみなす親もいるだろう(6)。世の中には、子供を扶養するだけの金銭的・精神的余裕のない親が存在する。そのような親から、金銭的・精神的余裕のある親の元へと子供が移転されるならば、子供は虐待や死を免れ得る――有償の里親制度と言える。自己所有権者であることを宣言した子供は、自身を放置する親を見限って、自分で保護者を選定することもできる。児童労働が法的に禁止されていないので、子供は親の保護下から逃れて、自分で仕事を探すことも出来る。

 リバタリアンな社会では、義務教育は存在しない(7)。子供に画一的なカリキュラムを押し付けることもなければ、子供は監獄のような学校に通う必要はない。家庭教師や塾、フリースクールなどが代替するだろう。児童労働が禁止されていないので、仕事の現場で技術を習得することも可能である。

 子供を「不良」だとか「不健全」、「引きこもり」と見做し、保護しようとする現行制度は自己所有権に反する(8)。子供たちは、学校や家庭、その他の環境から逃げだしている。子供たちがその環境を良しとしていないのは、逃げ出したという事実からも明らかだ。それに対し、政府は子供を「保護」、「更生」すると称して、子供にとって地獄のような環境に送り返そうとする。なぜか?政府にとって、子供は「福祉」のための社会的リソース(将来的な労働力)でしかないからだ――旧優生保護法を想起せよ。

 親が子供の不登校の意思を尊重することや、「社会性」を身につけさせないことは「虐待」と呼ばれる。政府は「適切な教育がなされていない」として「子供を保護する」と脅迫する。子と離れたくない親は、子供の意思を抑圧し、無理やり学校へ行かせることとなる。子供は学校で嫌な思いをし、政府から自分を保護しない親への信頼を失う――親子の関係は政府に破壊される。このように、政府は反社会的活動を行う集団である。リバタリアンな社会には、幸いにして、このような政府は存在しない。

生殖技術について

 近年、生殖技術によって生まれた子供について、親権の帰属が問題になっている。ここでも自己所有権は大いに役立つ。生殖技術によって子供が生まれる前に、当事者が契約を結べば済む話である。生まれた子供が、血縁上の親を「知る権利」も問題になっている。もちろん、そのような権利は存在しない。

(中条やばみ)

注釈

(1)リバタリアンに対する批判の一つに「リバタリアンの人間像は原子的個人を想定している」というものがある。しかし、リバタリアンはいかなる人間像も想定していない。ロスバード曰く「しかし、個人が孤立した原子であると考えるリバタリアンは、これまでに一人もいなかった。反対に、あらゆるリバタリアンは、社会で生きることおよび社会的分業に参加することに、必要性と大きな便宜を認めてきた。」Murray N. Rothbard (1998, 初版1982), The Ethics of Liberty, New York University Press. 森村進ほか訳(2003)『自由の倫理学』勁草書房、p.222。

批判に対して私はこう答えよう「仮に原子だったとして、原子は結合して分子にでも化合物にでもなれるのだから、それでいいじゃないか」。

(2)民法732-736条の禁止規定や、750条の夫婦同姓、752条の同居、協力及び扶助の義務や、その他諸々の家族法はリバタリアン社会に存在しないか、少なくとも一般的なルールではないだろう。

(3)裁判所は「思うに、婚姻の本質は,両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思をもって共同生活を営むことにある…」と価値判断を行う。最高裁昭和61年(オ)10 第260号同62年9月2日大法廷判決・民集41巻6号1423頁参照。裁判所HP「裁判所判例結果詳細」https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/213/055213_hanrei.pdf、2023/06/14確認。これは、近年の同性婚訴訟(札幌地裁の判決)でも維持されている。しかし、私見では「婚姻の本質」なるものは存在せず、個人間の連帯の目的は各人に委ねられるべきだと考える。

(4)古典的自由主義の哲学者である森村進曰く「実際私はかつて夫婦別姓問題に関連して『各個人は自分の姓を自由に変えられるべきだ』というリバタリアンな主張を新聞紙上に発行した……。」森村進(2001)『自由はどこまで可能か』講談社現代新書、p.6。森村氏は、姓を殊更重視しているのではなく、同書で「……もっと根本的に、婚姻という制度を法的には廃止すべきである」(p.161)と述べている点に注意。

(5)ロスバード曰く「我々の理論を親と子供に適用すると、親はその子供に対して侵害を加える権利を持たないが、また親はその子供に食糧や衣服や教育を与える法的な責務も持たない、ということになる」前掲(1)、p.118。

(6)前掲1、pp.122-124参照。

(7)Murray N. Rothbard (1999) Education – Free & Compulsory, The Ludwig von Mises Institute. 岩倉達也訳(2018)デザインエッグ社。も参照されたい。

(8)前掲(1)、pp.124-131も参照されたい。