リバタリアンの社会変革はどのようなものがあるだろうか。本稿はメモ程度の考察であるが、これに一考を与えようと思う。準備作業として、まず左右のリバタリアン思想を俯瞰し、その思想的特徴と、社会変革の手段を見ることにしよう。
起源
日本ではリバタリアン思想と言えば(経済的・政治的に)右派という言説が流布しているが、起源的にも、思想的にも、右派の思想であると断定するのは誤りである。リバタリアン思想は、ジョセフ・デジャックによって発明され、また、ロスバード(2016: 13)によれば古典的自由主義がルーツである(1)としている。デジャックが提唱した当時、アナキストは弾圧対象かつテロリズムの象徴であったために「看板の掛け替え」を行った。つまり、表向きにアナキズムの名称を捨て、リバタリアンを名乗ったのだ。デジャックを端に発する思想は、今日ではリバタリアン社会主義としてカテゴリーを確立している。これが、今日のリバタリアン思想の左派的側面だ。次に、古典的自由主義だが、ヨーロッパでは国家主義イデオロギーである重商主義と戦い、アメリカでは、連邦の権力増大派と戦った。当時の古典的自由主義はロスバードによれば「左翼」であったと論述しているが、今日では、古典的自由主義ないしそのバリエーションは右派的思想として理解されている。これが、今日のリバタリアン思想の右派的側面だ。現代的意義はともかく、リバタリアン思想の起源は、誕生当時は既存の特権階級や規制等と対決する左派的思想であったと言ってよかろう。
右派的側面
右派的側面のうち、最もその傾向が強いのは、大企業の擁護者アイン・ランドと、パレオ・リバタリアニズムないし右翼ポピュリズムを提唱した晩年のロスバードだ(2)。
アイン・ランドはロシア帝国からの亡命者であり、その出自からしてソビエト連邦やマルクス主義を強く憎む小説家である。ランドはいわゆる思想家ではなかったが、自身の小説と、(元)愛人のナザニエル・ブランデンの注力によって、主にアメリカで熱狂的なファンが存在する。彼女の思想は、アリストテレス主義者と一蹴されることも多いが、本稿で重要な側面は、大企業の擁護である。1961年にランドが行った講演で、アメリカの迫害された少数者として大企業を取り上げた(3)。これは、国家(アメリカ連邦政府)が大企業を法律によって弾圧している現状に対するコメントである。リバタリアンは、左右問わず、国家機関による法律の形で行使される暴力に反対する。ただ、左派的なリバタリアンは大企業が抑圧されているとは考えていないが、これは後述する。なお、リバタリアン・古典的自由主義・保守主義の活動家・組織・政治家に莫大な資金を援助し、運動を支えている大富豪のチャールズ・コークもここでは同類として取り扱う。
なお、資本主義の消極的擁護として、拒絶する理由がないからという論もある。ロック的労働混入説を採用する多くの右派リバタリアンは、その論理的帰結として、資本主義を「結果的に」擁護する者が多い。これらの論者は資本主義を道徳的に擁護することはあまりなく、その代わりに、自発的交換を道徳的・経済的に擁護する。ロスバードの無政府資本主義も、既存の国家資本主義を排斥する傍ら、ロック的自己所有権観をベースにしたリバタリアン思想を極めた帰結として無政府資本主義となった、という程度のものだろう。そのため、他の資本主義者(ロスバードがいうところの国家資本主義者)とは正当化の根拠や、資本主義理解はまるで異なる。
次に、パレオ・リバタリアニズムを提唱した晩年のロスバードだが、その半生(後述)と異なり、左派的側面を放棄した晩年のロスバードは、自由な社会のために、自由以外の要素を文化的基盤に求め、パレオ・コンサバティヴに急接近した。以前と同じく、税金の削減を主張する側面もあったが、既存の宗教や家族的価値観に親和的であった。金銭的な事柄ではなく、精神的・文化的な領域で、右派性を取り込んだと言えよう。
左派的側面
では、左派的側面はどうだろうか。リバタリアンの左派的側面は、①アナキズム由来のリバタリアン社会主義、②リバタリアン左派、③左派リバタリアニズムに大別される。
①のリバタリアン社会主義は、非マルクス主義、非国家主義、非権威主義的社会主義思想群であり、統一的見解があるわけではないが、政府と資本家を不当な存在とみなす傾向がある。リバタリアン社会主義者によれば、両者はその権力をもって権威的に人々を支配する存在であり、リバタリアン思想と相容れないと理解しているようだ。政治的スタンスとしては、選挙を忌避する傾向にあり、マルクス主義やレーニン主義のように、権力の掌握を拒否する(当然、例外はいくつも存在する。)
②のリバタリアン左派は、①のリバタリアン社会主義(と幾何かはオーストリア学派)の派生思想で、①の論者よりも、自由市場を擁護する傾向にある。ただし、右派的なリバタリアンと異なり、資本主義や資本家に対して懐疑ないし拒絶するため、結果として、労働者やイノベーターが主たる社会変革の担い手となる。①同様に選挙や議会政治を拒絶する傾向がある。なお、1960年代のロスバードは晩年とは異なり、この立場に依拠しており、ロスバード左派 Rothbardian Left として思想家・活動家群(4)を構成した。また、後述するが、このカテゴリーに存在するアゴリズムは左派と右派の融合的思想である。
③の左派リバタリアニズムは、近年では、法哲学・政治哲学を中心とするアカデミズムにて勢いのある思想群である。主に、ヘンリー・ジョージ由来のジオ・リバタリアニズムや、ヒレル・スタイナーのような非ロック的消極的自由が挙げられる。この立場は、土地を特定個人が(権利的に)所有不可能だとみなすため、土地については再分配を志向し、そのための機関(事実上の政府)を必要としている。
論争
右派と左派の論争はおおむね、次のような点が挙げられる。①資本主義の擁護と拒絶、②既存宗教ないし文化の擁護と拒絶、③政治活動と非政治活動の3点だ。
①の資本主義の擁護と拒絶は、左右で最も論争的な点であり、左右のリバタリアンが大同団結しない最たる論点である。左派は資本主義を国家と同等の悪しきものと理解し、廃絶を試みる。左派によれば、資本主義は資本家と労働者の非対称的かつ階層的関係を構築しており、この権威性がリバタリアン思想に則さないと論じるのだ。よって、大企業は――政府に抑圧されることもあるのかもしれないが――基本的には抑圧する側だというのが標準的な理解だろう。一方、右派は概ね擁護する傾向にある。「概ね」というのは、右派内では、ランドのように積極的に擁護する論者もいれば、資本主義を拒否する理由がないという消極的な論も存在するからだ。
②の既存宗教ないし文化の擁護と拒絶は、比較的曖昧な論点である。晩年のロスバード(そして、その系譜にあるハンス=ヘスマン・ホッペ)のように、積極的に既存宗教・文化を受容した右派もいれば、バクーニンのように神への叛逆を説いた左派もいる。ただ、傾向としては、右派は宗教そのものを拒絶せず――当然、ある宗教が国家を利用し、自己所有権に反するのであれば話は異なる――左派は歴史的な側面から、既存宗教と資本主義的・国家主義的搾取が固く結びついていた点を指摘するだろう。
③の政治活動と非政治活動、つまり、既存の政治制度を利用するか否かは、比較的明瞭な論点である。左派は歴史的側面から、既存の政治体制への参入を拒否する傾向にある。左派のリバタリアンが憎むのは社会民主主義――議会政治によって社会主義の理念を達成しようとする立場――である。左派によれば、社民は権力を握ると反社会主義的政策を行うようになった、と強く指摘する。そのため、選挙と政権の乗っ取りを拒絶し、即時の政府解体を主張する(5)。また、コンキンのように、経済活動による社会変革を志す論者もいる。一方、右派は既存の政治制度を許容する傾向にあるが、そのバリエーションは、エド・クレーンやチャールズ・コークのような議会主義の擁護者、議会主義にコミットするわけではないが多くの人々による「圧力」を主張するロスバード、エリート主義を採択し大衆ないし民主制を蔑視するランド(6)まで様々である。いずれにせよ、リバタリアン性が高まれば高まるほど、既存の議会にコミットを示さなくなると言ってよいだろう。
以上が、簡単ではあるが、左派と右派のリバタリアンの思想と諸傾向である。
社会変革の方法
本稿は社会変革を確認することが目的なので、上述の論点のうち社会変革論をさらに詳しく取り上げる。
リバタリアンの社会変革として考えられるのは、少なくとも次のものである。①議会主義、②テロリズム、③アゴリズム、④革命組織と大衆の二者を軸とする政治。
①の議会主義は、文字通り、既存の政治体制に存在する議会(国会・地方議会問わない)に浸透する戦略である。国家による民主制を活用することで、実際には支持者がそれほど多くなかったとしても政府を「乗っ取り」可能な点が魅力のひとつである(7)。また、選挙の度に組織を強化可能な点、「政治家」であることの権威性・特権の利用等が利点として挙げられるだろう。それら利点の反面、議会政治は腐敗の温床となりやすく、穏健派である議会主義者が急進派の非議会主義者を国家の権力を用いて弾圧することは、容易に考えられる帰結のひとつだ。左右問わず、急進的なリバタリアンは議会主義を採用しない。歴史的に、政府の巨大化を承認してきたのは議会の決定であり、国家の民主制に期待していないからだ。また、(間接)民主制に正当性や特段の価値を認めていないことも理由のひとつである。多数決や討議は左右のリバタリアン社会にあり得る決定方法であるが、それは理想社会の話であり、非理想的な状態で採用すべきものではないという考えもあり得る(8)。なお、もしリバタリアンが議会の多数派になった場合、あるいは国家元首に選任された場合は、どうだろうか。あまり前提がないため考察は困難だが、期待しないかもしれない。というのも、議会の制度や因習は複雑であり、短期間のうちにブームとなった政治集団に不利なように制度設計されている議会が多い(9)。また、ある程度の時間を経ると、会派間の「持ちつ持たれつ」の関係によって、政治集団間の差異が不明瞭となることもある(10)。最後に、数少ない(自称)リバタリアン政治家の具体例として、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領が挙げられる。氏はリバタリアンを自任しており、中央銀行の廃止を掲げる等、大統領としてはかなり急進的である。しかし、議会を掌握していないといった制度的側面や、イスラエル政府支持等に見られるリバタリアン性の乏しさから、私としては現状懐疑の目で見ざるを得ないが、氏が真のリバタリアンか否かは、数年も経たないうちに判明するだろう。
②のテロリズムは、バクーニンらリバタリアン社会主義者の「古典的」な方法である。既存の体制は反リバタリアン的ゆえに、それら制度を粉砕すべし、という至って単純な方針であるが、このテロリズム的方針が世間一般のアナキズムの評判を最大限に傷つけている理由でもある。幾何かのアナキストは、政治家の暗殺に注力したため、世間的なアナキズムのイメージが「危険で恐ろしいもの」として理解されるようになった。ジョセフ・デジャックがリバタリアンの言葉を発案した理由のひとつとして、この悪評を回避する展望があったほどである。とにかく、現在では、テロリズム路線は流行しているとは言えない。むしろ、テロリズムによる恐怖と暴力性に人々は忌避し、それらを除去するために政府の権力・権能を強化するばかりである。
③のアゴリズムは、サミュエル・エドワード・コンキン3世発案の社会変革論である。彼は、徹底的なオーストリアン的・自然権的リバタリアンであり、ロスバード同様、政府の存在を不正とみなす。それに留まらず、あくまでリバタリアンは手段と目的を首尾一貫させるべきだと主張する。つまり、政府を不正だとみなすのであれば、政府が用いる手段をリバタリアンは使ってはならず、政府を回避するブラック・マーケットを拡充すべきだという。具体的には、政府機関の選挙への投票や、政府が関与するホワイト・マーケットへの参加を拒絶し、リバタリアンの権利に沿った経済活動を行うべきというものである。経済そのものに反発するのではなく、既存の経済(エスタブリッシュメント・エコノミクス)に反発し、対抗経済(カウンター・エコノミクス)を打ち立てるのが彼の信念である。ブラック・マーケットの具体例として、公務員の内職や「被害者の以内犯罪」等を挙げている。日本語の闇市よりも広い概念である。ホワイト・マーケットは、ブラック・マーケットではない経済領域、つまり、政府公認の行政サービスや、政府の許認可を経た経済活動等があてはまるだろう。
④は政治を志す路線である。革命組織と大衆(組織)の分離はバクーニンも提唱しているが、ロスバードもその論者のひとりである。ロスバード(2016: 60)の人間観として、人間の個性や豊かなため、能力と情熱がある者が活動を指導し、その他大勢がそれを支持すると述べている(11)。また、この路線の特徴として、教育(啓蒙)だけでは社会変革は不可能だというリアリズムに依拠する側面もある。例えば、反リバタリアンである政治家や大株主がいたとして、彼ら/彼女らに「あなたはやっていることは反リバタリアンなので、今すぐやめてください」と懇願したところで「はい、分かりました」の返事とともにリバタリアンへ回帰する可能性は全くないとは言わないが、まずありえない。そのため、討議を超えた「力」による「説得」が必要となる。それは、平和革命の余地があるため論理的必然性があるとは言えないが、事実上の暴力革命である。アメリカ独立戦争、スペイン内戦、ティー・パーティ―運動、アメリカ連邦議会議事堂襲撃等、実力行使による社会変革の試みは過去幾度となく行われてきた。これら国家レベルの運動以外にも、もちろん、ストライキやピケ等も実力行使の一端である。
では、レーニン主義的な革命組織はどうだろうか。つまり、革命党によって大衆を指導し、かつ、プロレタリア独裁――政府の奪取及び運営――を狙う方法である。リバタリアンは、歴史的に反マルクス主義をルーツとしているためか(12)、レーニン主義的な組織論とは通常相性が悪いとされる。というのも、「革命党が大衆を組織する」という階層的な非対称的権威性、そして、政府の存続に対する会議ゆえに異議を唱えるからだ。では、非階層的な社会変革の実態はどうだったのか。アナキストにせよリバタリアンにせよ、その非レーニン主義的社会変革はほとんど成功したことがないと言い切ってよい。それどころか、多くのリバタリアンらが重視する教育機関の維持すらままならないという実態もある(13)。これは、リバタリアンのアイデンティティ的側面――非社交的社交性――と理解されることもあるが、社会変革のための組織理論を持ち合わせていないことが最たる理由だろう。そのようなリバタリアンの中でも稀有な例であるロスバードは、意識的に社会変革の手段としてマルクス主義的運動論を採用したとされるが、残念なことに、彼の作り出した運動体が持続することはほとんどなかった(14)。学生運動の後退、そして、ロスバードの急進的学生への幻滅とともに、運動は保守的・資本主義的なものに後退し、彼自身が嫌っていた保守主義へと帰着したのだ。
現代を生きるリバタリアンはどのように社会変革を志すべきか。急進的でありつつも、運動を持続させる組織論が必要だ。
(前川範行)
注釈
(1)
Rothbard, Murray N. (1978), For a New Liberty: The Libertarian Manifesto, 2nd ed., Ludwig von Mises Institute. 岩倉竜也訳(2016: 13)『新しい自由のために』デザインエッグ社。
(2)
パレオ期のロスバードの思想は、Rothbard, Murray N. (1990), “ Why Paleo?” Rothbard-Rockwell Report, Vol.1, No.2, pp.1-5. が詳しい。
(3)
America’s Persecuted Minority: Big Business
(4)
カール・ヘス、サミュ・コンキン等。
(5)
もっとも、プルードンのように国会議員を務めた者もいる。
(6)
ランドというよりも、オールド・ライトの思想と言った方が正確かもしれない。
(7)
特に死票が多く発生する小選挙区制でその傾向が強い。日本の場合、自由民主党の国会に占める議席の割合は約6割だが、同党への投票者は有権者のうち2割前後である。
(8)
この際、多数決や民主制を承認するのは、自己所有権リバタリアンの場合、①自己所有権が侵害されていない状態で、②自己所有権者が同意すること、が重要な前提となるだろう。
(9)
例えば、日本の議会は、衆議院の優越があるものの、二院制かつ委員会制度のため両院の多数をとらなければ、議会運営はままらない。また、アメリカ上院は3分の1が改選となるため、上院のすべてで多数派になるためには、6年の歳月が必要となる。
(10)
日本においては、日本社会党と自由民主党の国対政治が挙げられる。政治理論としては、中位投票者定位が詳しい。
(11)
Rothbard, Murray N. (1978), For a New Liberty: The Libertarian Manifesto, 2nd ed., Ludwig von Mises Institute. 岩倉竜也訳(2016: 60)『新しい自由のために』デザインエッグ社。
(12)
なお、マルクスのリバタリアン的側面に注目した、リバタリアン・マルクス主義という立場もある。
(13)
シンクタンク大国のアメリカは例外であり、リバタリアン系シンクタンクが複数存在する。
(14)
左右のリバタリアンを包含した急進リバタリアン同盟 Radical Libertarian Alliance はごく短期間のうちに消滅した。また、彼が関与したリバタリアン党は、年月とともに穏健化し、遂にはロスバードが離党するに至った。が、近年はまた急進化の兆しがある。