『新リバタリアン宣言』③

対抗経済学:我々の手段

 我々の過去と国家主義者の現在を詳細に見て、また――必要とされる人間本性での変化のない――現在の理解と技術を伴ったよりより実現可能な社会の信用できる観点を一瞥することで、我々は宣言の重大な部分に到達する。つまり、いかにして我々はここからそこへたどり着くのか?この問いは本質的に、あるいはもしかすると非本質的に、二つに分けられる。国家なしで、ミクロ(市場を含む、個人の環境において個人自身によって個人の操作)での差異と、マクロ(集団の操作)のそれは、せいぜい、マーケティング機関への少々の言及と、奇妙な国家主義的活動になるだろう。それはそうとして、非常に洗練された丁寧な人は、たとえ誰かに危害を加えずとも、彼ないし彼女の行為の社会的帰結を理解したいと思うかもしれない。

 すべての行為を腐敗させ、我々の精神を価値のない罪に汚す国家に対して、我々の行為の社会的帰結を理解することは、非常に重要になる。例えば、税を支払わなかったり、税から逃げ出したなら、誰が苦痛を伴うのか?我々なのか?国家なのか?無辜の人々か?リバタリアンの分析は、「利己的脱税者」が陥っていると国家が主張する、無辜の人々への何かしらの損害への責任が国家であるということを、我々に示す。そして、国家が我々に「提供する」「サービス」は幻想である。しかし、そうだとしても、巧妙に隠され、「消された」バラバラの抵抗よりも、やるべきことがあるのではないか?もし政党や革命軍がリバタリアンの目標にとって不適切かつ自己破壊的ならば、どんな集団的行為が必要なのか?答えはアゴリズムである。

 国家主義社会からアゴラへの人間味ある広大な集積を企てることは、可能であり、実践的であり、有益ですらある。深淵な意味において、これは、真なる革命的行為であり、次章で取り扱われるだろう。しかし、このマクロな回答を理解するために、我々はまずミクロな回答の概略を述べなければならない。[1]

 支配階級のための(ローマ帝国の卜占官のような)予想づくり以上に、既存経済学の疑似科学的機能は、被支配階級の富が向かう場について、また、いかにそれが行われるかについて、被支配階級を紛らわせ、混同させることだ。いかに人々が自身の富と財産を国家から保持するかの例証は、対抗既存経済学、つまり、略して対抗経済学にある。国家から逃れ、回避し、拒否する人間行為の現実の実践が対抗経済活動であるが、「経済学」が科学とそれが探求することの両方に言及するような同じ杜撰な方法で、対抗経済学は疑いなく用いられるだろう。この著作が対抗経済理論そのものであるため、対抗経済学に関するとされるものは、実践である。

 すべての、あるいは一部の特徴的な便利な対抗経済学を描き、言及することは、少なくとも、十分な量自体を要するだろう。[3]まさに十分なものが、宣言の残りの理解に与するために、ここで描かれるだろう。

 アゴリスト社会から国家主義社会へ移行することは、険しい作業になるだろうし、物理的な高く消極的なエントロピーの道筋と同等だ。結局、誰かがうまく管理された自由社会に住み、それを理解すると、なぜ体系的な強制、略奪、そして不安に回帰するよう望むだろうか?知覚可能で合理的な無知と非合理性を広めることは、難しい。いずれかが既に明白に理解されるという誤魔化しは、ほぼ不可能だ。アゴリスト社会は、衰退に比例して、非常に発展し開かれているにもかかわらず、見事に安定的になるはずだ。

 映画を逆再生させるように、アゴリスト社会から現在の国家主義社会へ時間を逆行させてみよう。何が見えると期待するだろうか?

 国家が地域独占を必要とするために、領域内にほとんどつながった、国家主義のポケットがまず見えてくるだろう。残された犠牲者は、彼らを素晴らしく自由な世界をますます気づくようになり、また、このポケットから「蒸発していく。」市場保護機関の巨大シンジケートは、保護保険に契約する人々を保護することによって、国家を包含している。最も重要なこととして、国家主義のポケットか周辺社会の外側にいる人々は、比較的高額な保険料と、彼らが訪れる場で多少気を遣うことを除けば、アゴリスト社会を楽しんでいる。(国家が全面的な最終攻勢をしない限り)国家主義的周辺社会への侵略と解放の費用が即座の見返りよりも高くなるとされるため、孤立主義的「外交政策」を維持することで、アゴリストは国家主義者と共存可能だが、リバタリアンの代替案が十分に可視化あされ、利用可能なとき、被害者が抑圧され続けるよう選択する余地を想像する現実的理由はない。国家の領域は、今にもアナーキーに陥る過飽和溶液のようなものだ。

 他の段階に立ち戻れば、状況が逆転したと分かる。国家主義下の広大な社会内のセクターとより小さなセクターが、可能な限りアゴラ的に営まれるのが分かる。しかしながら、ひとつの目に見える違いがある。アゴリストは領域的に隣接している必要はない。彼らはどこでも生きていける。彼らが、社会的強化のためだけでなく、交易の容易さと有益さのためにも、彼らの仲間のアゴリストと結合しようとするにもかかわらずだ。より信頼できる消費者と供給者が取引することは、常により安全でより有益である。この傾向は、多くのアゴリスト的個人間のより活発な結びつきと、より国家主義的な要素の分解のためだ。(この傾向は理論的に強力なだけではない。すでに今日の萌芽的実践に存在する。)いくつかの容易に防衛可能な領域、もしかすると孤島(あるいは海底)、大都市の「ゲットー」のような場は、ほぼ全域にアゴリストがいるかもしれず、それらは国家が潰す能力がない場だ。しかし、ほとんどのアゴリストは国家主義者が主張する領域内に住むだろう。

 非常に国家主義的な国家から小さな利益を得ること、徹底機に自由に生きるようなアゴリスト的代替案と競争の小さい十分な良心、そして、その他の様々な混合の程度の中間部分を伴って、今日があるように、ほとんどの個人にとって、アゴリズムの程度があるだろう。

 最後に、一掴みの者だけがアゴリズム、膨大な数の多数派が国家の存在から幻想的な利得を知覚するか、代替案を知覚できないこと、そして、国家主義者自身、つまり、市場に対する国家の介入から新たな利得を受領することで定義される政府機構と階級を理解する場に立ち戻る。

 これは、我々の現在の社会の記述である。我々は「ホーム」にいる。

 進路を逆走し、国家主義からアゴリズムへの道を記述する前に、現在の社会と新しくもたらされるアゴリスト的知覚を見回してみよう。旅行者が、彼ないし彼女が外国の土地と人生の手段から学ぶものから新しい光に何かを見出し、帰宅するのと同じくらい、我々は現在の状況に対する新しい洞察を得るかもしれない。

 少数の啓かれた、地球上のより自由な国家主義的領域に寛容に扱われた新しいリバタリアンに加え(「寛容」は国家主義に対するリバタリアンの汚染の程度において存在する)我々は何かしらのものを知覚する。つまり、今、何かしらの理論について僅かな理解とアゴリスト的方法において行為するが、国家を迂回し、回避し、拒否する物質的利得に誘発される大多数の人々だ。確かに、彼らは希望ある可能性だろうか?ソビエト連邦、つまり、第一の国家の要塞と、ほぼ全体的に崩壊した「公の」経済では、巨大なブラック・マーケットは、ロシア人、アルメニア人、ウクライナ人、そしてその他の人々に、支配階級から公的な新聞と寵愛へ、食料からテレビの修理に至る何らかのものを与える。『ガーディアン・ウィークリー・レポート』のように、ビルマはほとんど全体的なブラック・マーケットと、軍隊、警察、そして少数の気取った政治家に地位を悪化させられた政府である。様々程度で、これは、ほぼすべての第二、第三世界の真実である。

 「第一」世界とは何か?社会民主国家では、ブラック・マーケットはより小さい。なぜなら、合法に認められた市場取引の「ホワイト・マーケット」は広大だからだが、前者はいまだにやや顕著だ。例えば、イタリアは、「ブラック」な貨幣をもたらす残りの日に様々な仕事での非公式な労働や、朝7時から午後2時までの公的に働く、イタリアの民間サービスの大部分の「問題」がある。オランダは住宅の広大なブラック・マーケットがあるが、これはこの産業の高度の規制のためである。デンマークは租税回避運動があるが、政治にそそのかされたその運動に従事する人々が第二党を形成しているぐらいに大きい。そして、これらは、報道が覆い隠すのを可能にしているか、いとわないようになっている最も顕著な例の一角に過ぎない。通貨統制は激しく回避される。例えばフランスでは、誰もが多くの隠し金(きん)を持っていると想定され、ツアー旅行やスキー以上に、スイスへの小旅行はありふれている。

 この対抗経済活動の広がりを本当に称賛するためには、誰かが比較的自由な「資本主義」経済を考察しなければならない。北アメリカのブラック、そしてグレー・マーケットを見てみよう、そして、これが今日の世界の最低限の活動の事例だということを思い返そう。

 アメリカ合衆国内国歳入庁<17>によると、少なくとも200万人が、取引の発覚を避け、交換するために現金を用いる租税回避者の「地下経済」に属している。数百万人が、インフレーションによる隠れた課税を回避するために金か外国資産で貨幣を保有している。移民帰化局<18>によると、数百万の「違法移民」が雇用されている。数百万人以上が、マリファナや、レアトリル<19>や禁止薬物を含むその他の違法ドラッグを取引し、消費している。

 そして、すべての「被害者なき犯罪」の実践者がいる。ドラッグの使用に加え、売春、ポルノグラフィ、酒類密売、誤った身分証明書類、ギャンブル、そして合意した大人同士の非合法性行為がある。これら諸行為の政治的受容を獲得するための「改革運動」にもかかわらず、大衆は今行為することを選ぶ。そして、そうすることで、対抗経済を創っている。

 しかし、それはここでは止まらない。全米で55マイルの速度規制が立法されて以来、ほとんどのアメリカ人は対抗経済運転手になっている。トラック輸送産業は、国家の規制の行使を回避するために、CBコミュニケーションズを発展させている。55マイルで3回走るよりも75マイルで4回走ることを可能にさせる個人事業主たちのために、対抗経済運転は生存に関する問題である。

 古来の密輸の習慣は、関税の高いマリファナや外国製製品の船荷、そして、後進国からトラックでやってくる人々、税関に報告せずに荷物の中に少しの余分なものを隠している旅行人など、今日も盛んである。

 ほとんど全員が、記録されていないサービスの支払い、つまり関連品との交易と、違法な性的職業と彼らの友人を報告しないように、納税報告書への誤解釈か誤指示の類に従事している。

 その時、ある程度、誰しも対抗経済の実践者だ!そして、これはリバタリアン理論から考えると当然のことだ。人間行為のほぼすべての側面は、その理論を禁止し、寄生し、統制する国家主義的立法を有する。これらの法は、一会期が国家(放任的メカニズムそのもの!)を千年に渡って著しく廃止しないような、何らかの新たな立法を妨害し、活発に10か20の法を廃止する「リバタリアン」党ゆえに非常に多い。[6]

 明らかに、国家はその布告の行使を達成することができない。しかし、国家は継続する。そして、誰もが多少なりとも対抗経済的なら、なぜ対抗経済は経済を圧倒しないのだろうか?

 北アメリカの外で、我々は帝国主義の効果を付け加えることができる。ソビエト連邦は1930年代により発展した国家から支援を受け取っており、第二次世界大戦中には、膨大な量の暴力の装置を受け取った。今日でさえも、未償還貸付に酷く助成された「交易」は、ソビエトと新しい中国の体制を支えている。両ブロックからのこの資本(あるいは価格破壊的な反資本)の流れは、軍事援助と共に、他の地球の体制を維持する。しかし、それは北アメリカの例を説明しない。

 国家の継続を容認するのは、地球上のどこにでも存在する被害者の制裁である。[7]すべての国家主義の被害者は、ある程度国家を内部化している。所得税が「自発的応諾」に依拠するとしているIRSの年次宣言は、皮肉にも真実だ。納税者が完璧に血の供給を断つのであれば、吸血鬼たる国家はどうしようもなく枯れるだろうし、ほぼ即座に国家の未支払い警察と軍は職務を放棄し、怪物を骨抜きにする。もし誰もが契約とその他の交換で金や財のために「法貨」を放棄するなら、課税こそが近代国家を維持し得るというのは疑わしい。[8]

 これは、直接的であれ支配階級の所有権を通じてであれ、国家による教育と広報メディアが重要になるところだ。昔は、既成の司祭は、王と貴族を神聖化し、抑圧関係を神秘化し、逃避者と抵抗者に罪をもたらす機能を満たしていた。宗教の脱既成化は、新しい知的階級(ロシア人がインテリゲンチャを呼ぶもの)への重責を加えた。(教義に従わない神学者や聖職者がそうであったように)真理を最高の価値として保持する幾何かの知識人は、神秘化よりも明晰化によって仕事をするが、彼らは国家と財団が管理する収入を使わずに、放逐され、罵られた。したがって、不一致と改革の現象がつくられる。また、したがって、反知性主義の態度が、裁判所の知識人の機能を期待するか、不完全に理解する人々の間に、生み出される。

 いかに、アナキストの知識人がすべての国家の下で攻撃され、抑圧されたかについて十分注目せよ。そして、彼らが現在の支配階級の打倒――何かしらのものでそれを置き換えることによってのみ――の主張は鎮圧される。国家の受益者を排除し、その他を付け加える変革を提起する人々は、しばしば、高次のサークルの要素を受益することで賛美され、潜在的敗者に攻撃される。

 最も確固なブラック・マーケターの一般的特徴は、かれらの罪にある。彼らは「自身を結束させ」、「まっとうな社会」に回帰することを望む。密輸人とヤクの売人は、追放者たちによる協力的な「部分社会」を形成するときでさえも、いつか社会に再び受け入れられることを望んでいる。しかし、この受容の切望の現象を予期させることはある。1700年代の宗教的反対者の共同体、1800年代の政治的理想主義者の共同体、そして、最近の例として、ヒッピーと新左翼のカウンター・カルチャーがある。それらが有していることは、その部分社会が他の社会よりも優れているという確信だ。それらが他の社会で生み出すそれ自身に対する恐ろしい反応は、それらが正しいことへの恐怖だ。

 それらの自己持続的周辺社会のすべての例は、ただひとつの最も重要な理由によって失敗した。経済学に対する無知だ。たとえいかに美しかったとしても、社会的制約がなければ社会の基本となる接着剤――労働の分割――に打ち勝てない。反市場コミューンは、唯一執行可能な法――自然の法――を拒否する。(家族以上の)社会の基本となる組織的構造は、コミューン(や部族、拡大部族、国家)ではなく、アゴラである。いかに多くの者が共産主義建設を望み、自身の身をささげたとしても、それは失敗するだろう。彼らは偉大な努力によって漠然とアゴリズムを阻害可能だが、彼らがそこへ向かうとき、「流れ」、「見えざる手」、「歴史の潮流」、「利益動機」、「自然にできることをすること」、「自生性」は、社会を容赦なく純粋なアゴラに近づけるだろう。

 なぜ来たるべき幸福への抵抗のようなものがあるのだろうか?心理学者は、自身の未発達の科学を始めることで、それに取り組んでいる。しかし、社会経済的な問いになると、我々は少なくとも、2つの大雑把な回答を与えることができる。(原理のように見えるが、実際には自然法に反する)反原理の内部化と、既得の利益に対する対抗である。

 今、我々は、リバタリアン社会を創設するのに必要な明らかなことを理解可能だ。一方には、我々はリバタリアンな活動家の教育と、リバタリアンな理解と相互協力性のための対抗経済学者の意識的勃興を必要とする。「我々は正しい、我々はより良い、我々は道徳、つまり道徳的手段に生きている、そして、我々は我々自身と他者にとって利のあるより良い社会を作っている」と、我々の対抗経済的「論戦集団」は断言するかもしれない。

 十分に実践的な対抗経済学者ではないリバタリアン活動家は確信させる見込みのないことによく注目せよ。「リバタリアン Libertarian 」政治候補は、彼らが行うことによって(価値について)言うことのすべてを弱める。いくつかの候補は、課税する官僚や防衛部局の仕事さえも保持している!

 他方で、我々は、既存の利害に反抗し、少なくとも、可能な限りより低い抑圧の程度に我々自身を守らなければならない。もし我々が対抗生産的に改革活動を慎むなら、いかにそれを達成するだろうか?

 ひとつの手段は、対抗経済の中に多くの人々を招き、国家にとって利用可能な略奪品を低下させることだ。しかし、回避は十分ではない。どのようにして、我々は自身を守り、反撃するのか?

 ゆっくりと、しかし着実に、我々はリバタリアニズムに対してより対抗経済学的を、そして、対抗経済学に対してよりリバタリアンにさせる自由社会に動き、最終的に理論と実践が統合されるだろう。対抗経済は、我々が過去に旅して見たように、国家主義社会に埋め込まれたますます大きくなるアゴリストの部分社会を伴って、次の段階に成長し、広がるだろう。幾何かのアゴリストは、認識可能な地区やゲットーに凝縮し、諸島や宇宙植民地を支配するかもしれない。この点において、保護と防衛の問いは重要になるだろう。

 第2章でのアゴリストモデルを用いて、我々は保護産業が進化するに違いない方法を見ることができた。まず、なぜ人々は保護なしに対抗経済に従事するのか?彼らが引き受けるリスクに関する支払いは、彼らが予想する損失よりも大きい。この言説は、もちろん、すべての経済活動に関して正しいが、対抗経済にとっては、以下の特別な重点を要する。

対抗経済学の基礎原理は、リスクと利益を交換することだ。[9]

 予想される利益を高めると、よりリスクを引き受けることになる。もしリスクが少なかったとしても、より多くのリスクが企てられ、成し遂げられることに注意せよ。それは確実に、自由社会が不自由なそれよりも富んでいる指標だ。

 ケア、予防措置、安全(施錠と隠れ家)を増大させ、また、より高く信用についてより少数の人々を信用することで、リスクは低減できるかもしれない。後者は、仲間のアゴリストと取引する高い選好と、アゴリストの部分社会を拘束する強大な経済的インセンティヴと新規採用し、それを支援するインセンティヴを指し示す。

 対抗経済の企業家は、より良い安全装置、隠匿の場、回避を助ける教育を提供し、他の対抗経済企業家のための潜在的消費者と供給者を覆い隠すインセンティヴを有する。また、したがって、対抗経済的保護産業が生まれる。

 それが発達するにつれて、対抗経済的リスクをさらに低下させ、対抗経済的成長を加速させることで、「暴発」に対する保証を始めるかもしれない。そのとき、見張りと防護された保護区域を、警報システムと高い技術的隠匿機構に備え付けるかもしれない。防護者は(国家以外の)実際の犯罪者に対して配備されるかもしれない。既に多くの住居、商業、そして少数派の区域でさえも、国家が申し立てた財産の保護に見切りをつけることで、私的巡視員を有する。

 その過程で、対抗経済的交易人間の契約違反のリスクは仲介人によって低下されるだろう。その後、保護機関はアゴリスト間の契約執行を開始するだろうが、初期段階の最大の「執行者」は、それぞれが互いを通報しうる国家になるだろう。しかし、そのような立法は、即座に部分社会から誰かを追放する結果になるだろう。内部執行者機構が尊重されるからだ。

 最終段階で、対抗経済学者の国家主義者との取引は、国家の犯罪性に対して保護される保護機関とアゴリストたちによって執行されるだろう。[10]

 この点に関して、我々は、リバタリアン社会の達成より前に最後の段階にたどり着く。社会は、神聖な多くのアゴリストと国家主義者のセクターに分割される。そして、我々は革命の最高点にいる。

(訳:前川範行)

脚注

[1]

 ミクロとマクロは、現在の既存経済からの用語だ。対抗経済学が(国家がなくなるまで)アゴリズムの一部である一方、アゴリズムは実践における対抗経済学と、理論におけるリバタリアニズムの両方を包摂する。その理論が広大な対抗経済の実践の帰結の自覚を含むため、私はマクロな意味でのアゴリストと、ミクロな意味での対抗経済を用いるだろう。分割が本質的に曖昧であるため、多少の重複と互換性が発生するだろう。

[2]

 「対抗経済学」は、「カウンター・カルチャー」と同じ用法でつくられた。それは、カウンター・カルチャーが反カルチャーであることとは異なり、反経済科学であることを意味しない。

[3]

 この書物、対抗経済学(この本)は、1981年に完成され、1982年に出版される予定だ!

  • 第二版の注釈:市場はいまだに進んでいない、しかしもうすぐだ…

[4]

 その階級は支配階級、パワー・エリート、陰謀と呼ばれており、マルクス主義者、リベラル、ジョン・バーチ協会員<20>の経歴に由来する分析かどうかに依拠している。

[5]

 いくつかの強制的行為は、しばしば「ブラック・マーケット」のラベルにひとまとめにされている一方で、この「組織的犯罪」の膨大な多数派は、時には芳しくないが、完璧にリバタリアンを合法とする。例えばマフィアはブラック・マーケットではないが、その被害者から貨幣(税)をみかじめ料として集め、強制執行とむち打ち(法執行)を伴う統制を行い、さらに独占が脅威とされるときに戦争を行うような、いくつかのブラック・マーケットを超越する政府として行為する。このような行為は、後で議論されるブラック・マーケットの道徳的行為からそれらを区別するレッド・マーケットと考えられる。つまり、「ブラック・マーケット」は、国家によって禁止され、何かしらの方法で実行される、何らかの非暴力的なことを指す。

 「グレー・マーケット」は、それ自身の違法性ではなく、国家に制定された手段の中で獲得され、分け与えられた財とサービスの取引の意味としてここでは用いられる。「ホワイト・カラー犯罪<21>」と呼ばれるものの多くはこれに陥り、また、ほとんどの社会で是認される。

 ブラックとグレー・マーケットをどこで線引きするかは、その人がいる社会の意識の状態に大きく依存する。レッド・マーケットは明らかに異なる。殺人はレッド・マーケットだ。(国家が自己防衛を禁止するとき)警察を含む犯罪者に対して自分自身を守ることは、ニューヨーク市ではブラックで、オレンジ郡ではグレーだ。

[6]

 したがって、リバタリアン党 “L”P は国家主義を永続させるだろう。しかも、リバタリアン党は支配階級の不正な利得を保ち、国家の法執行と強制執行を持続させる。

[7]

 この作用の方法の例は、役に立つかもしれない。私が密売品を受け取るか売る、あるいは、税を回避するか規制に反したいとしよう。そうしたら、私は10万ドルを稼げるだろう。

 犯罪の懸念を考慮する政府を用いることで、端的に、いかに我々がなんとか済ませるかを国家は知ることができないため、常に国家の熱意に関して誇張され、私は懸念の割合を20%と見積もる。そうすると、誰かが、裁判所に出頭する事例の割合や、たとえ良い弁護士と納得する結果となる事例の割合を発見するだろう。25%が裁判に行くとするならば、50%は納得する結果となる。(後者が高いが、無罪放免だが、合法的費用の損失を伴う決定でさえも「損失」だとするため、必要となる合法料金を投じるだろう。)そのため、私は2.5%のリスクを負う(.20 x .25 x .50 = 0.025。)これはかなり多くの実際の例では高い。

 私の最大罰金が50万ドルか懲役5年、あるいは両方だとしよう。私の対抗経済的取引(誰も明らかに、それをするかしないかの決定を勘定に入れることはできない)を除外すると、1年で10万ドルを損失するため、私は1年に2万ドルと見積もるかもしれない。拘禁の5年間を価値づけるのは非常に困難だが、少なくとも現在の社会において、他の組織化(学校、軍隊、病院)よりも悪くはなく、また少なくとも、対抗経済学者は罪と良心の呵責に苛まれることはないだろう。

 そのため、私は60万ドルの2.5%、つまり1.5万ドルの損失と、5年間で10万ドルの獲得を重みづける!また、すべての費用と罰金を支払うために、私自身に1.4万ドル(あるいはそれ未満)の保険を容易につけるだろう!つまり、それは機能する。

[8]

 おそらく、明らかに、ビジネスが対抗経済の中でやや大きく成長しうることは、注目されるべきだ。「賃労働者」か否かは、生産の全工程に関する「独立契約者」が根拠のあることの代替として存在するだろうが、この論者は、「労働者の上司」の全概念が、マルクスが主張するような「資本主義」の原理ではなく封建制の遺物であると感じる。もちろん、資本国家主義はリバタリアンが唱道することに反する。

 さらに、大企業でさえも、今日、部分的に対抗経済的になっているだろうし、政府機関を満たし、僅かの税を支払い、形式的な多くの労働者を報告する「ホワイト・マーケット」の分け前から離れている。他のビジネスは、最終生産物を供給し、奉仕し、分け与える独立契約者で帳尻を合わせるだろう(し、既にしばしばそうしている。)ビジネスなしに、労働者、企業家の誰しもがホワイト・マーケットを必要としない。

訳注

<17> 

Internal Revenue Service は、アメリカ連邦政府の機関の1つで、連邦税に関する執行、徴収を担当している。日本における国税庁の役割と同じ。

<18>

Immigration and Naturalization Service は、2003年までアメリカ合衆国に存在した政府部局。不法入国者の発見および阻止、帰化の裁定等を行っていた。

<19>

Laetrile は、アンズや桃の核から製する制癌剤で、効果が証明されないまま広く投与された。体内で青酸化物を発生するため、FDAによって販売が禁止された。

<20>

John Birch Society は、第二次世界大戦直後に宣教師として偽装中に、中華民国の八路軍に殺害されたアメリカ合衆国戦略情報局の工作員、ジョン・バーチにちなむ協会で、1958年にロバート・W・ウェルチ・ジュニア Robert Henry Winborne Welch Jr. らによって設立された。自らをニュー・ライトとして定義し、徹底的な反共を掲げた。

<21>

white-color crime は、第三次産業(ホワイト・カラー)労働者による金銭目的の非暴力的犯罪を指す。詐欺、贈収賄、ねずみ講、横領、著作権侵害等が該当するとされる。