ノート:リバタリアン思想史1

 私は以前から一貫してリバタリアン思想・リバタリアニズムは、左翼思想に起源があると主張しており、この研究ノートは、その説を補強するためのものである。

 日本のアカデミズムにおけるリバタリアニズムは、ロバート・ノージックをもって幕開けとみなす傾向ある。これは、政治哲学がジョン・ロールズにより再興され、彼の同僚であるノージックも引き合いに出されることになった副産物である。そのため、「リバタリアニズム=最小国家論」という矮小な決めつけが日本では蔓延することとなり、無政府資本主義やリバタリアン社会主義が歴史のゴミ箱へ一掃されてしまった。このノージック(ロールズ)偏重の世界観に物申すのが私の研究者としての役目の1つである。

 さて、従前のような「リバタリアニズム観」が常識となった今では、「リバタリアン思想は左翼起源」という文言に眩暈がすることに疑いはない。「リバタリアニズム=右派的・資本主義的・小さな政府的イデオロギー」という「歴史」を信じる人は、「リベラリズムという概念が社会的リベラルに強奪されたので、仕方なくリバタリアニズムを使う」とよく嘆くが、その実、右派リバタリアンが左派リバタリアンから歴史を強奪したのだ。これを告発することが私の研究者としての2つ目の役目である。

 本稿はあくまでノートであり、論理的に整理されたものではなく、雑多なアイデア・メモであるため、残念なことに、読者の方々に告発のすべてを開示できない。しかし、その一端を示すことにそれなりの役割があると信じて、以下ノートを綴る。

ノージック伝来前に日本に「リバータリアニズム」は存在した

 今回は大澤正道(1967)『アナキズム思想史』今泉誠文社、を取り上げる。この本は、アナキズム・アナキストの思想・運動をまとめた、アナキズムの入門書のようなものである。大澤氏(1967: 8-9)はエルツバッヘルの『無政府主義』での人物本位な分類に異議を唱え、「歴史的な背景や、実践運動との関係、これら[アナキストたちとその思想]の諸説のうちにある有機的な結びつきなどが、かならずしも明らかにされていない」と述べ、19世紀以降のアナキズム運動の歴史を年頭に置いた分類を試みる。やや長い引用だが、非常に重要なので転記すると、

 ぼくの考えでは、近代アナキズム理論は大別して二つのグループにわけられ、それぞれリバータリアニズム、アナルコサンジカリズムとして現代に受け継がれているとおもわれる。この二つのグループの間で、たとえばタッカーとクロポトキンの論争にみられるように、はげしい対立、抗争の行われたこともあったが、こんにちでは一方が絶対的に正しく、他方が全く誤っているというものではなく、それぞれに真理を語っており、それぞれにおぎない合うべきものとされるのがふつうである。

 その一つ[リバータリアニズム]は、自主的な能力を養い、国家権力と直接対決するというより、国家権力の外側で民衆の自主的な、自治的な生活態度、組織活動を培養し、あたらしい社会秩序の地ならしをすること、その面に運動の重心をおく理論である。したがって、このグループに特徴的なのは啓蒙的、教育的、建設的な点である(大澤1967: 9)。

 と、リバータリアニズムとアナルコサンジカリズムを峻別している。現代のアナキズムの分類では、通常、前者は個人主義的アナキズムと呼ばれ、後者はアナルコ・サンディカリズムと呼ばれる。日本では、前者の代表的な論者として八太舟三、後者には大杉栄が、海外では、前者にベンジャミン・タッカー、後者にミハイル・バクーニンが挙げられる。彼らの思想体系・運動論は大幅に異なる箇所がある――ただし、反国家という点は一致している。

 大澤によると、リバータリアニズム・グループの中でも一際啓蒙色が強い論者に、ゴドウィン、ソロー、シュティルナー、トルストイ、石川三四郎らを挙げている。大澤のいう啓蒙的とは「主として考え方の変革、生活の仕方の改革こそ、まず第一の仕事であるという前提の下に、民衆に思想宣伝を行うこと」であり、教育運動とは「啓蒙と密接につながっているが、啓蒙よりさらに具体的、実践的な面がつよい」とし、建設的とはロバート・オーウェンらの共同体の実験[ニュー・ハーモニーのこと]やプルードンの人民銀行を例に挙げた上で「国家権力の外側に自主的な、共同的な組織を作ってゆくという方法」としている(大澤1967: 10-11)。現代的には、思想家が啓蒙を、シンクタンクと活動家が教育を、活動家と企業家が実践を行うといったところだろうか。

 なお、もう一方のアナキズムはバクーニン的なものであり、「すべての悪の大本は国家権力にあり、その一掃なしに、新しい社会は考えられない、国家権力が打倒されれば、民衆はすぐにでもアナキズム社会を実現しうる、と主張する。それゆえ、この派は行動的、破壊的な面がつよい。一般におそれられ、こわいもののようにみられていたのは、主としてこの派の人たちである(大澤1967: 11)」と述べているように、一般に流布したアナキズムのイメージに沿うものだ。ここでは、教育を重視するリバータリアニズムと、(破壊的な)行動を重視するアナルコサンジカリズムと理解すればよい。

 また、大澤(1967: 15)はアナルコサンジカリズムとリバータリアニズムの関係について、

 アナルコサンジカリズムとならび立つリバータリアニズムは、きわめてひろい思潮を代表している。こんにち、この言葉はオーソリタリアニズム(権威主義)に対するものとして使われており、旧式なリベラリズムよりさらに急進的、本質的な自由の哲学であることをめざしている。
 いわゆるオールド・リベラリズムが資本主義と代議政治の思想上の表現であったように、リバータリアニズムはアナルコサンジカリズムを内側から支え、その真理であることを論証する哲学といえよう。逆にいえば、リバータリアニズムの政治経済的な理論が、アナルコサンジカリズムなのである。

 と述べている。大澤の理解によると、リバータリアニズムとはアナキズムの哲学的側面であり、アナルコサンジカリズムは活動的側面のようだ。

 つまるところ、大澤のリバータリアニズムは、①個人主義的アナキズムとその意味するところはほぼ同じものであり、②権威主義に反する思想であり、③アナキズムの哲学的側面である、と言えよう。

 簡単に、大澤の理解を現代のリバタリアニズム研究に当てはめてみようと思う。前述のように、今日のリバタリアニズム研究は右派リバタリアンの独壇場であり、左派的・アナキズム的側面がクローズアップされることは――ヒレル・スタイナー的左派リバタリアニズムを除き――まずない。それは、アカデミズムにおいて理論的関心に乏しいだけではなく、歴史的関心の忘却でもある。リバタリアン思想は純然たる右派思想とは言い難い。あの無政府資本主義者のマレー・ロスバードですら、(現実世界において)大資本家には反対であったし、オーストリア学派経済学を受容したサミュエル・エドワード・コンキン3世は賃労働を批判した。思想的に混濁としたこのような状況では、一度、リバタリアン思想の原点(左派的・アナキズム的側面)に立ち返り、リバタリアン思想が持つ「コア」を探求する必要があるだろう。大澤のリバータリアニズム理解は、上記のような歴史の忘却の拒絶と、「コア」への接近において、有用であると言えるだろう。

 最後に、今後の研究のために、問いをいくつか記しておこう。①なぜ、そしていつ、リバータリアニズムの語は、個人主義的無政府主義を意味するものから、右派リバタリアニズムへと変容したのか。②リバータリアニズムの訳語にどのような理由があるのか。③これよりも前の時代に日本でリバ(ー)タリアニズムの語は使用されていたのか。①は私の研究者人生の続くうちに解明したい重要な問いである。常識的には、アメリカの個人主義的無政府主義者のエッセンスがオールド・ライトに受け継がれたと考えるのが自然だろうが、そうだと断定するには証拠が少ない。②は libertarianism をカタカナでそのまま転写していることに関してである。思い切って日本語(漢字)に訳さない・訳せないには、それなりの理由がある。そもそも libertarian が何を指す概念であるか曖昧なのがそれだろう。私は、リバタリアン思想を理解することは、リバタリアン概念史・運動史を理解することだと考えている。歴史的営為を排除した理論研究だけでは、曖昧な概念が持つ意味を理解し、訳を生み出すことは難しいだろう。③は引き続き調査する予定だ。

(前川範行)

文献

大澤正道(1967)『アナキズム思想史』現代思潮社。