はじめに
本稿は個人主義的無政府主義者であるベンジャミン・R・タッカー Benjamin R. Tucker による State Socialism and Anarchism : HOW FAR THEY AGREE, AND WHEREIN THEY DIFFER(1888) の翻訳記事である。翻訳にあたってはモリナリ研究所 MOLINARI INSTITUTE に公開されているもの(1)を原本とした。元の文章やホームページには著作権保護の表示がない。
私には翻訳の経験がほぼ無く、訳文は文字通り「拙訳」となっている点をご了承願いたい。おそらく誤訳もある。無断で改訳・転載していただいても構わない。訳註は〔〕で囲ってある——訳し方に困ったのでそうしてある場合が多い。丸括弧は原文のものである。分かりやすいように句読点の位置を変えたり、挿入句「——」を用いた箇所がある。
ちょっとした解説
タッカーは、無政府資本主義を提唱したマレー・ロスバードに影響を与えている。ロスバードは、例えば「リバタリアンはアナーキストか」(阿奈城なき訳)において、リバタリアンとアナーキストは異なるとしながらも、「個人主義的アナーキストは、リバタリアン思想に多大な貢献をしてきたのである。彼らは、個人主義や反国家統制主義について、これまでに書かれたもののなかで最も優れた意見をいくつか発表してきた。政治的な領域では、個人主義的アナーキストは、概して健全なリバタリアンであった。」と述べ、個人主義的無政府主義を高く評価した。と同時に、「しかしながら、政治的な失敗が小さかったのとは対照的に、経済的には深刻な誤りに陥った。彼らは、貨幣供給量への人為的とされる制限のために、利子と利潤が搾取から生じると信じていた。国家とその金融規制が撤廃され、自由銀行が設立されれば、誰もが必要なだけ貨幣を発行することができ、利子と利潤はゼロになるだろうと信じていたのである。フランス人のプルードンから得たこのハイパーインフレの思想は、経済的にはナンセンスである。」と批判した。
リンク
(1)https://praxeology.net/BT-SSA.htm
(中条やばみ
国家社会主義とアナーキズム
両者はどこまで意見を同じくし、どこで異なるのか(1888)
By Benjamin R. Tucker(1854-1939)
おそらく、敵対する人々や無関心な人々だけでなく、好意的な人々や支持者自身の大部分にさえも全く理解されないか誤解されていると同時に、現代社会主義よりも多数の新メンバー及び影響範囲をこれほどまでに獲得した抗議運動〔agitation〕は、今までの歴史で存在しないだろう。この不幸にして非常に危険な状態は、部分的には、この運動――仮に、こんなに混沌としたものを運動と呼べるなら――が変革しようとしている人間関係〔the human relationship〕が、特殊的または諸々の階級〔special class or classes〕ではなく、文字通り全人類を巻き込んでいる〔involve〕という事実に起因する。また、これらの人間関係が、特殊的〔special〕改革が求められてきた人間関係よりも、限りなく多様で複雑な性質を持つという事実にも起因する。また、社会を形成する大きな力、つまり情報と啓蒙の経路が、労働者が自分自身を所有すべきだ〔labor should be put in possession of its own あるいは、労働者は労働それ自体を所有すべきだ〕という社会主義の根本的な主張と相反する、直接的な金銭的利益をもつ人々のほとんど排他的な支配下にあるという事実にも起因する。
社会主義の意義、原理、目的をおおよそでも理解していると言えるのは、社会主義勢力における両翼の過激派〔extreme wings〕の指導者達と、おそらくは一部の金の亡者〔the money kings〕達だけである。最近、説教師や教授、三流記者の間で、このテーマを扱うのがすっかり流行になっているが、その大部分が悲惨な仕事であり、判断能力がある人の嘲笑と憐憫を買っている。中間派の〔intermediate どっちつかずな〕社会主義部門の著名人達が、自分たちが何をしようとしているのかを十分に理解していないのは、彼らが占める立場を見れば明らかである。もし彼らがそれを理解しているならば、そして彼らが首尾一貫した論理的思考をするなら、フランスで言うところの結果主義者であったなら、彼らの理性はとっくにどちらかの極端に駆り立てられていただろう。
というのも、現在検討している巨大勢力の両極端〔the two extremes of the vast army〕は??上で暗示したように??労働者が自分自身〔あるいは、自らの労働〕を所有すべきだと言う主張が共通しているにもかかわらず、片方の極〔either〕が共通の敵である既存の社会に反対する場合よりも、社会的行動の基本原理と目的達成の方法が〔両者の間で〕互いに全く正反対である、という奇妙な事実があるからである。両者は2つの原理に基づいている。今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。既存の社会を擁護する者も含む全ての中間派は、両者の妥協によって成り立っている。事物を支配する秩序に対する知的で根深い反抗は、両極のどちらか一方から来なければならないことは明らかである。と言うのも、それ以外に源泉を持つものは、革命家の精神からほど遠く、表面的な修正に過ぎないので、現代社会主義に現在寄せられている注目や関心を、それ自体の上に全く集中出来ないのだ。
ここで言う2つの原則とは権威と自由であり、そのどちらか一方を完全かつ無条件に代表する社会主義思想の二つの学派の名は、それぞれ、国家社会主義とアナーキズムと呼ぶ。この2学派が何を望み、どのような手段でそれを成そうとしているかを知る者は、社会主義運動を理解する。ローマと理性との間に妥協がないと言われてきたように、国家社会主義とアナーキズムとの間に妥協はないと言えるかもしれない。事実、社会主義勢力の中道から2つの潮流がどんどんと溢れ出てきており、左右に濃縮されている。社会主義が勝利しようとするのであれば、この運動の分離が完了し、既存の秩序が粉砕されたとしても、両陣営において極限的でより苦しい対立に発展する可能性がある。その場合、全ての8時間労働者、全ての労働組合主義者、全ての労働騎士団、全ての土地国有化主義者、全てのグリーンバッカー〔greenbackers 紙幣の流通量の削減に反対する人々〕、要するに、労働者大軍団〔the great army of Labor〕に属する千差万別のメンバー全員が、以前の立場を放棄し、一方と他方に整列し、大戦〔the great battle〕が始まるだろう。国家社会主義者の最終的勝利が何を意味するのか、アナーキストの最終的勝利が何を意味するのか、それを簡潔に述べることが本項の目的である。
しかし、これを知的に行うには、まず両者に共通する基盤、つまり社会主義者を社会主義者たらしめている特徴を説明しなければならない。
現代社会主義の経済原則は、アダム・スミスが『国富論』の序章で打ち立てた原則から論理的に導かれたものである??すなわち労働こそが価格の真の尺度であるという原則である。しかし、アダム・スミスは、この原則を最も明確かつ簡潔に述べた後、すぐにそれ以上の考察を放棄し、実際に価格を測定しているのは何か、そしてそれによって、現在の富がどのように分配されているかを示すことに専念した。彼の時代以来、ほとんどすべての政治経済学者は、彼の例に倣い、自身の役割を、工業的・商業的段階における、あるがままの社会の記述に限定してきた。それに対して社会主義は、その役割を、あるべき社会の記述と、あるべき社会にするための手段の発見に拡張した。スミスが上記の原則を発表してから半世紀以上経って、社会主義はスミスが落としたところを拾い上げ、その〔原則の〕論理的結論に従うことで、新しい経済哲学の基礎とした。
3つの異なる言語の、3つの異なる国籍の、3人の異なる人物がこれ〔社会主義経済哲学の発展〕を独自に行ったようである。その3人とは、アメリカ人のジョサイア・ウォーレン、フランス人のピエール・J・プルードン、ドイツ系ユダヤ人のカール・マルクスである。ウォーレンとプルードンが単独で誰の助けも借りずに結論に至ったことは確かだが、マルクスの経済思想の大部分がプルードンのおかげだった疑問がある。しかし、マルクスが提示した思想は多くの点で独自のものだったのだから、彼が独創的であると評価されるのは当然のことだろう。この興味深いトリオの仕事がほぼ同時に行われたことは、社会主義が広まっていたこと〔in the air〕、そして、この新しい学派の出現のための機が熟して好条件が整っていたことを示すように思われる。時間によって順位をつける場合に限っては、この功績はアメリカ人のウォーレンに功績があるように思われる――このこと〔アメリカ人が先んじて現代社会主義を発展させたこと〕は、社会主義を輸入品だと非難することを好む煽動家にとって、注目すべき事実である。彼もまた生粋の革命家の血を継ぐ者である、バンカー・ヒルで戦死したウォーレンの子孫だからだ。
労働が価値の真の尺度であるというスミスの原則から――あるいはウォーレンが言ったように、原価が価格の適切な限界であるという原則から――この3人は以下のような推論を行った。労働の自然な賃金はその生産物である。この賃金、つまり生産物こそが唯一の正当な収入源である(もちろん、贈与や相続などは除く。)他の源泉から所得を得る者は全て、直接的あるいは間接的に、自然で正当な労働の対価を窃盗している。この窃盗の過程は、一般的に3つのうちの1つの形態をとる??利子、地代、そして利潤である。この3つは暴利〔usury〕の三位一体を構成し、資本の使用のための貢物〔tribute〕を徴収する方法が異なるに過ぎない。資本とは既にその報酬を完全に受け取った労働〔の残余〕を蓄積したものに過ぎず、労働こそが価格の唯一の基礎であると言う原則に基づき、資本の利用は無償であるべきである。資本の貸し手は、資本をそのまま返してもらう資格があるが、それ以上を受け取る資格はない。銀行家、株主、地主、製造業者、商人が労働者から暴利〔usury〕を取り立てることが可能なのは、単に合法的特権、すなわち独占によって支えられているという事実に基づいているに過ぎない。労働者がその生産物全体、すなわち自然な賃金、を享受できるようにする方法は、独占を打破する以外にない。
ウォーレン、プルードン、マルクスの誰かが、正確に上記の言い回しを用いたとか、正確にこの思想に従ったと推定してはならない。しかし、3人が採った基本的な立場と、彼らに共通する範囲の実質的な思想をじゅうぶん明確に表している。そして、私が3人の立場や主張を誤って述べていると非難されるといけないから、あらかじめ申し上げておいた方が良いかもしれない。私は彼らを大雑把に検討したこと、そして、比較と対照を鋭く、鮮明に、強調するために、彼らの思想を私独自の順序や言い回しを用いて、かなり自由にアレンジしている。しかし、そうすることによって、本質的な部分で彼らを誤って表現することはないと私は信じる。
両者の道を分けることになったのは、独占を打破する必要性に迫られたこの時点である。ここで道は別れた。右か左か、権威の道か自由の道か、どちらの道に進むべきか、彼らは理解した。マルクスは一方の道を進み、ウォーレンとプルードンはもう一方の道を進んだ。こうして国家社会主義とアナーキズムが生まれた。
まずは国家社会主義。これは、個人の選択に関係なく、人間のあらゆる問題は政府によって管理されるべきだという教義だと説明できるかもしれない〔太字は原文イタリック〕。その創始者であるマルクスは、全ての産業と商業の利益、全ての生産と流通の機関を、国家の手にある巨大な独占期間に集中させ統合することが、階級的独占を廃止するための唯一の方法だと結論づけた。政府は、銀行家、製造業者、農民、運送業者、商人にならなければならず、これらの能力において、いかなる競争も許してはならない。土地、道具、あらゆる生産手段を個人の手から奪い取り、集団の所有物としなければならない。個人が所有できるのは、消費される生産物だけであって、それを生産する手段ではない。人間は、自分の衣服や食料を所有することはできるが、自分のシャツを作るミシンや、ジャガイモを掘る鋤を所有することはできない。生産物と資本は本質的に異なるものであり、前者は個人に帰属し、後者は社会に帰属する。社会は、できることなら投票によって、必要であれば革命によって、自分たちのものである資本を奪い取らなければならない。いったん資本を手に入れたら、多数決原理に基づいてそれを管理し、その機関である国家は、生産と流通に資本を利用し、すべての価格を労働の量によって決定し、全人民をその作業場、農場、店舗などで雇用しなければならない。国家は巨大な官僚機構に変身し、すべての個人は国家公務員に変身しなければならない。すべてのことはコスト原則〔the cost principle〕に基づいて行われなければならず、国民は自ら利益を上げる動機を持たない。個人が資本を所有することは許されず、誰も他人を雇用することはできないし、自分自身を雇用することもできない。すべての人は賃金を受け取る者となり、国が唯一の賃金を支払う者となる。国家のために働こうとしない者は飢えなければならず、刑務所に入れられる可能性も高い。貿易の自由はすべて失われる。競争は完全に一掃されなければならない。すべての産業と商業活動は、巨大で包括的な独占企業1社に集中しなければならない。独占に対する治療法は独占である。
これが、カール・マルクス〔の思想〕から採用された、国家社会主義の経済プログラムである。その成長と進歩の歴史は、ここで語ることはできない。この国でこれを支持する政党は、カール・マルクスに従うふりをする社会主義労働党、エドワード・ベラミーを通してろ過されたカール・マルクスに従う国民党、イエス・キリストを通してろ過されたカール・マルクスに従うキリスト教社会主義者として知られている。
この「権威」の原則が、ひとたび経済分野で採用されれば、他にどのような応用が展開されるかは明白である。それは、すべての個人の行動を多数派が絶対的に統制することを意味する。国家社会主義者たちはこのような統制の権利をすでに認めているが、彼らは実のところ、個人は現在享受しているよりもはるかに大きな自由が与えられるだろうと主張している。しかし、個人はそれを許されるだけで、自分のものとして主張することはできない。可能な限り大きな自由を保証された平等の上に、社会が成り立つことはないだろう。存在し得る自由は、苦しみによって存在し、いつでも奪われる可能性がある。憲法の保障は何の役にも立たない。国家社会主義国の憲法には、一つの条文しかない。すなわち「多数派の権利は絶対である」。
しかし、個人の生活のより親密で私的な関係においてこの権利が行使されることはないだろう、という国家社会主義者の主張は、政府の歴史によって裏付けられるものではない。権力は常に、自身に権力を追加し、その領域を拡大し、権力に設定された限界を超えて侵犯する傾向がある??そして、そのような侵犯に抵抗する習慣が育たず、個人が自分の権利を奪われないようにすることを教わらなかった場合、個性は次第に失われ、政府や国家がすべてになってしまう。管理には当然責任が伴う。したがって、個人の健康、富、知力に対して共同体が責任を負うという国家社会主義の制度の下では、共同体が、その多数決的な表現を通じて、健康、富、知力の条件を規定することをますます主張するようになることは明らかであり、その結果、個人の自立性が損なわれ、ついには個人の責任感も破壊されてしまう。
国家社会主義者が何を主張しようが、何を否定しようが、彼らの制度を採用すれば〔以下のような制度に〕行き着く運命にある。国家宗教〔a State religion〕はすべての人に費用の拠出させ、全ての人はその祭壇に跪かなければならない。国家医学校〔a State school of medicine〕の医者〔のみ〕が必ず病人を治療しなければならない。国家衛生制度〔a State system of hygiene〕が、何を食べ、何を飲み、何を身につけ、何をしなければならないか、何をしてよくないかを規定する。国家倫理規定〔a State code of morals〕は犯罪を罰するだけでは飽き足らず、多数派が悪徳だと決定した事柄を禁止する。国家教育制度〔a State system of instruction〕は全ての私立学校、学園、大学を廃止する。国家保育所〔a State nursery〕によって、全ての子供は、公費で、共同で育てられなければならない。そして最後に、国家家族制度〔a State family〕は優生学、化学的繁殖を試みる。この制度では、国家が子供を作ることを禁止すれば、男女は子供を作ることを許されず、国家が子供を作ることを命じれば、男女は子供を作ることを拒否できない。こうして、権威は絶頂に達し、独占はその最高権力に達するのである。
これが論理的な国家社会主義者の理想であり、カール・マルクスが歩んだ道の先にあるゴールである。では、もう一方の道――自由の道――を歩んだウォーレンとプルードンの運命を追ってみよう。
〔自由の道は〕我々をアナーキズムへと誘う。アナーキズムとは、人間のあらゆる問題は諸個人〔individuals〕または自発的〔voluntary〕な団体によって管理されるべきであり、国家は廃止されるべきだという教義である、と説明できるかもしれない〔太字は原文イタリック〕。
ウォーレンとプルードンは、労働者の正義を追求する過程で、階級的独占という障害に直面した。そのとき、彼らは、これらの独占が権威の上に成り立っていることを見抜いた。なすべきことは、この権威を強化し独占を普遍化することではなく、独占の対極にある競争を普遍化することによって権威を完全に根絶し、反対の原理である自由に完全に振り切れること〔to give full sway to〕であると結論づけた。彼らは競争に、生産にかかる労働コストに対する価格の偉大な平準化機能を見出した。この点で、彼らは政治経済学者と一致した。そのとき、なぜすべての価格が労働コストまで下がらないのか、という疑問が自然に湧いてきた――労働以外の方法で収入を得る余地がどこにあるのか、一言で言えば、利子、家賃、利潤の受け手である使用者がなぜ存在するのか?その答えは、現在の一方的な競争にあった。資本が法律を巧みに操り、生産的労働力の供給において無制限の競争を認めているため、賃金が餓死寸前まで、あるいは現実的に可能な限りそれに近いところまで引き下げられていることがわかったのだ。また、配分労働力〔distributive labor〕、すなわち商業階級の労働力の供給においては、多くの競争が認められており、その結果、商品の価格ではなく、商人の実際の利潤が、商人の労働に対する公平な賃金にいくらか近いところまで抑えられている。しかし、生産的労働も分配的労働も、その達成力を資本に依存しているため、資本を供給する際には、ほとんどまったく競争不可能であり、その結果、貨幣の利子率、家屋家賃や地代家賃は、人民の必需品が耐えられるだけ高い水準に保たれている。
これを知ったウォーレンとプルードンは、政治経済学者たちが自分たちの教義を恐れていると非難した。マンチェスターの人々は一貫性がないと非難された。彼らは、賃金を引き下げるために労働者と競争する自由は信じたが、暴利〔usury〕を引き下げるために資本家と競争する自由は信じなかった。自由放任主義は、労働者であるガチョウ〔the goose〕には非常に良い味付け〔sauce〕であったが、資本家であるガチョウ〔the gander〕には非常に悪い味付け〔sauce〕であった。しかし、この矛盾をどう修正するか、どうすればこの味付け〔sauce〕でこのガチョウを提供できるか、どうすれば資本をビジネスマンや労働者にコスト負担なく、あるいは暴利〔usury〕無しで提供できるか――それが問題だった。
これまで見てきたように、マルクスは資本と生産物とが異なるものであると宣言し、資本は社会に属するものであり、社会がこれを掌握し、すべての人の利益のために使用されるべきであると主張することによって、この問題を解決した。プルードンは、資本と生産物のこの区別を嘲笑した。プルードンの主張〔するところによれば以下の通りである〕。資本と生産物は異なる種類の富ではなく、同じ富の単なる代替的な条件や機能であると主張した。資本と生産物は異なる種類の富ではなく、単に同じ富の代替的な条件や機能にすぎない。全ての富は、資本から生産物へ、そして生産物から資本へと絶え間ない変化を遂げ、その過程は際限なく繰り返される。資本と生産物は、純粋に社会的な用語である。ある人にとっては生産物であっても、別の人にとってはすぐに資本となり、その逆もまた然りである。もし世界に一人しか人間がいなければ、すべての富はその人にとって資本であり生産物である。Aの労動の果実〔the fruit of A’s toil〕は彼の生産物であり、それがBに売られると、Bの資本となる(ただし、Bが非生産的な消費者である場合は別である。その例は、社会経済の視野から外れた、単なる浪費された富にすぎない)。蒸気機関はコートと同じように生産物であり、コートは蒸気機関と同じように資本である。一方を所有することも、他方を所有することも、同じ衡平法則〔the same laws of equity〕が支配する。
これらの理由や他の理由から、プルードンとウォーレンは、社会による資本の収用〔seizure〕などという計画を認めることはできないと気づいた。しかし、資本の所有権を社会化することには反対であったが、それにもかかわらず、資本の利用を、少数者を富ませるために多数者を貧しくする手段ではなく、万人にとって有益なものにすることによって、その効果を社会化することを目指した。そして、彼らに光明が差し込んだ。資本を競争という自然法〔the natural law of competition〕に従わせることで、資本自身の使用価格を費用にまで引き下げるようにする――つまり、資本を取り扱い、移転するために付随する経費を超えるものがないようにする――ことによって、これが可能になることがわかった。そこで彼らは絶対自由貿易の旗印??国内と同様に外国との自由貿易、マンチェスターの教義の論理的実行、レッセフェールという普遍的ルール――を掲げた。この旗印の下で、国家社会主義者の全面的独占であれ、現在優勢な様々な階級的独占であれ、独占との戦いを開始した。
後者のうち、彼らは4つの主要かつ重要なものを区別した――貨幣独占、土地独占、関税独占、特許独占〔the money monopoly, the land monopoly, the tariff monopoly, and the patent monopoly〕である。
第一に重要な、彼らが貨幣独占と見做した弊害は、特定の諸個人――すなわち、特定の財産を持つ諸個人――に対して与えられる政府による特権――すなわち、流通媒体〔貨幣〕の発行という特権――に依る。この特権は、現在この国では、流通媒体を供給しようとする他のすべての者に課される10%の国税と、通貨として紙幣を発行することを犯罪とする州法によって強制されている。彼らが主張するところでは、この特権の所有者は、利子率、家屋や建物の家賃率、商品の価格を支配している――直接的には利子率によって、間接的には地代と商品価格によって。というのも、プルードンやウォーレンに言わせれば、銀行業を万人に自由にすれば、ますます多くの人が銀行業に参入し、競争が激しくなり、貸出価格が〔貸出にかかる〕労働の必要経費(統計によれば3/4%以下)にまで低下するだろうからだ。そうなれば、現在、事業を開始・継続するのに必要な資金を調達するために支払わなければならない破滅的な高率のために、事業への参入を躊躇している何千人もの人々は、その困難が取り除かれることに気づくだろう。売却してお金に換えたくない不動産があれば、銀行はそれを担保に、〔その不動産の〕市場価格の一定割合を1%未満の割引率〔利率〕で融資するだろう。財産はなくとも勤勉で正直で有能であれば、一般的に、彼らは、既知の支払い能力のある十分な数の関係者たちによって裏書きされた、個人的な覚書を得ることができるだろう――そして、その手形を使えば、彼らは、銀行で同様の条件で融資を受けることができるだろう。かくして、利子は一挙に低下するだろう。その銀行は、資本を貸し出すのではなく、顧客の資本によって事業を行うだろう。その事業とはつまり、銀行の一般的に知られており広く通用する信用〔credits〕を、あまり知られておらず利用不可能な――しかし同じくらい良い――信用とを交換すること、そして、資本の利用料としてではなく、銀行を経営する労働者のために支払われる1%未満の料金からなる事業である。この資本取得の容易性は、前代未聞の推進力を事業に与え、前例がないほどの労働力への需要を作り出すだろう――現状の労働市場とは正反対に、需要は供給を常に上回るだろう。そうなれば、リチャード・コブデンの「2人の労働者が1人の雇用者を求める場合には賃金が下落し、2人の使用者が1人の労働者を求める場合、賃金は上昇する」という言葉の実例が見られるだろう。そのとき、労働者が賃金を決定づける立場になり、その結果、本来の賃金、すなわち生産物全体を確保することができる。このようにして、利息を引き下げるのと同じ打撃が、賃金を引き上げるのである。しかし、それだけではない。利潤も低下するだろう。商人は、掛け値で高く買う代わりに〔buying at high price on credit〕、銀行で1%未満で金を借り、現金で安価で購入し、顧客に売る商品の価格をそれ相応に引き下げるだろう。では、残る家賃の話に移ろう。自分の家を建てるための資金を1%で借りられる人は、それ以上の家賃を地主に支払うことに同意しないだろう。このように、プルードンやウォーレンは、貨幣独占の単独廃止がもたらす結果について、膨大な主張を展開している。
第二に重要なのは土地独占である――そして、その弊害は、専らアイルランドのような農業国において見られる。この独占は、個人の占有と耕作に基づかない土地の所有権を政府が強制することに依る。ウォーレンやプルードンにとって、個人主義者が、仲間から、土地の個人的占有と耕作以外のあらゆる方法で保護されなくなるやいなや〔つまり、土地を保護する方法が個人的所有や耕作のみによるのであれば〕、地代が消滅し、その結果、暴利〔usury〕の足が一本少なくなることは明らかであった。今日の彼らの支持者たちは、この主張を修正し、独占に依るのではなく、土壌や土地の優劣に依る地代の機能は、自由の条件下では常に最小になる傾向にあるとはいえ、一時的には、そしておそらくは永久に、ごくわずかには存在し続けるだろうと認めている。しかし、土地にかかる実利的な〔economic〕地代を生じさせる土壌の不平等は、能力の実利的な地代を生じさせる人間の技能の不平等と同様、暴利〔usury〕に最も徹底して反対する者にとっても、深刻な憂慮の念を抱かせるものではない。なぜなら、その性質は、その他のより危険な不平等がそこから生じる起源のようなものではなく、むしろ、最終的には枯れて倒れる朽ちた枝のようなものだからである。
第三に、関税独占である。これは、低価格で有利な条件のもとでの生産をひいきにしている人々に課税という刑罰を科すことによって、高価格で不向きな条件下での生産を助長することに依る。この独占がもたらす弊害は、暴利〔usury〕というよりも、むしろ暴利損失〔misusury おそらく造語、機会損失的な意味合い〕と呼ぶ方が適切かもしれない。というのも、この独占は、資本の使用に対してではなく、むしろ資本の誤用に対して、労働者に支払いを強いるからである。この独占の廃止は、課税されるすべての物品の価格の大幅な引き下げをもたらし、これらの物品を消費する労働者にとってのこの節約は、労働者にとっての自然な賃金、すなわち労働の成果全体を確保するためのもう一つのステップとなるであろう。しかし、プルードンは、貨幣独占を廃止する前にこの独占を廃止することは、残酷で悲惨な政策であると認めた。第一に、貨幣独占によって生じる貨幣の欠乏の弊害は、輸入が輸出を上回ることによって生じる国外への貨幣の流出によって、いっそう強まるからである。第二に、現在保護産業に従事している労働者のうちの少数は、競争的な貨幣制度が生み出す飽くなき労働需要の恩恵にあずかることなく、飢餓に直面して路頭に迷うことになるからである。国内における貨幣の自由貿易は、貨幣と労働を豊かにするものであり、プルードンによって、外国との商品の自由貿易の先行条件として主張された。
第四に、特許独占である。これは、発明者や著作者を、その役務の労働対価を莫大に上回る報酬を国民から強要するのに十分な期間、競争から保護することに依る。言い換えれば、特定の人々に、自然の法則や事実に対する財産権を数年間与え、この自然の富を利用するために他人から年貢を取り立てる権力を与えることである。この独占を廃止すれば、その受益者は競争に対する健全な恐怖で満たされ、他の労働者が得るのと同等の報酬で満足するようになる。そして、その製品や作品を、その事業分野が他のどの分野よりも競争相手にとって魅力的でないほど低い価格で〔過剰な価格ではなく、最低限の独占価格で〕、最初に市場に投入することによって、その報酬を確保するようになるだろう。
このような独占を破壊し、その代わりに最も自由な競争をさせるという経済綱領の発展によって、その著者たちは、自分たちの思想のすべてが、個人の自由――つまり、自分自身、自分の生産物、自分の個人的な問題に対する統治権、外部の権威の命令に対する反抗――という、非常に基本的な原則の上に成り立っているという事実を認識するようになった。資本を個人から取り上げて政府に与えるという考え方が、マルクスを、政府をすべてにして個人を無にすることに帰結する道に進ませたように、政府に保護された独占企業から資本を取り上げ、すべての個人の手の届くところに資本を置くという考え方が、ウォーレンとプルードンを、個人をすべてにして政府を無にすることに終始する道に進ませた。もし個人が自らを統治する権利を持つのであれば、全ての外的〔external〕政府は専制である。したがって、国家を廃止する必要がある。これが、ウォーレンとプルードンが迫られた論理的結論であり、彼らの政治哲学の基本的な条項となった。プルードンがアン=アーキズムと名付けたこの教義は、ギリシャ語に由来する言葉で、一般に考えられているような秩序の不在ではなく、支配の不在を意味する。アナーキストは単に、恐れることないジェファーソン的民主政の支持者である〔The Anarchists are simply unterrified Jeffersonian Democrats〕。彼らは「最良の政府とは最小の政府である」と信じており、最小の政府とはまったく政府を持たないことである。個人と財産の保護という単純な警察機能でさえ、強制課税によって支えられる政府に与えることを、彼らは否定する。保護は、それが必要な限り、自主的な結社と自衛のための協力によって確保されるべきもの、あるいは、他の商品と同じように、最良の商品を最低の価格で提供する者から購入されるべき商品と見なす。彼らに言わせれば、侵略に対する、本人が求めてもいないし、望んでもいない保護に、支払いや我慢〔to suffer〕を強制すること自体が、個人に対する侵略なのである。さらに彼らは、彼らの経済計画の実現によって貧困が消滅し、その結果、犯罪が消滅した後、保護は市場における麻薬になると主張する。彼らにとって、強制的な課税はすべての独占企業の生命線である。徴税人に対する受動的な、しかし組織的な抵抗は、適切な時期が来れば、彼らの目的を達成する最も効果的な方法の一つとして考えられている。
この点に関する彼らの態度は、政治的あるいは社会的な性質を持つ他のすべての問題に対する彼らの態度の鍵となる。宗教に関する限り、彼らは無神論的だった。なぜなら、神の権威と道徳の宗教的制裁を、特権階級が人間の権威を行使するために提唱される、主要な口実とみなしているからである。「神が存在するとすれば、それは人間の敵である」とプルードンは言った。そして、ヴォルテールの有名なエピグラム「もし神が存在しなければ、神を発明する必要があるだろう」とは対照的に、ロシアの偉大なニヒリスト、ミハイル・バクーニンは、このような反語的な命題を掲げた。 「もし神が存在するなら、神を廃絶する必要がある。」しかし、神のヒエラルキーをアナーキーと矛盾するものとみなし、彼らはそれを信じないが、アナーキストはそれを信じる自由を固く信じている。信教の自由を否定するものには真っ向から反対する。
このように、各個人が自分の神父になる権利、あるいは自分の神父を選ぶ権利を支持し、同様に、各個人が自分の医者になる権利、あるいは自分の医者を選ぶ権利も支持する。神学の独占なくして、医学の独占なし。競争は、常に、どこにでも、存在する??霊的な助言も医学的な助言も、それぞれの長所によって〔それが役に立つか否かによって〕立つか倒れるかが決まる。医学のみならず健康の問題〔hygiene〕においても、この自由の原則に従わなければならない。個人は、健康になるために何をすべきかだけでなく、健康を維持するために何をすべきかを自分で決めることができる。何を食べなければならないか、飲まなければならないか、着てはならないか、すべきでないか??そして、何をすべきか??を、外部のいかなる権力も彼に指図してはならない。
アナーキズム的スキームには、個人に課すべき道徳規範もない。「放っておいてくれ〔Mind your own business〕」というのが、アナーキズムの唯一の道徳律である。他人の事柄〔business〕に干渉することは犯罪であり、唯一の犯罪である――それゆえ適切に抵抗されるようなものである。アナーキストは、この考えに従って、悪を独断的に抑圧しようとする試みそのものを犯罪とみなす。彼らは、自由とその結果としての社会的幸福が、すべての悪徳を確実に治すと信じている。しかし、酒飲み、ギャンブラー、放蕩者、娼婦が、自由にそれを捨てることを選ぶまで、その生活を送る権利は認める。
アナーキストは、子供の扶養・養育に関して、国家社会主義者が好んでいる共産主義的な保育所を設立することも、現在普及している共産主義的な学校制度を維持することもしない。保母や教師は、医者や伝道師のように、自発的に選ばれなければならず、そのサービスは、彼らをひいきにする〔patoronize〕人々によって支払われなければならない。親の権利は奪われてはならないし、親の責任は他人に押し付けられてはならない。
男女関係のようなデリケートな問題であっても、アナーキストはその原則の適用をためらわない。彼らは、どんな男女でも、彼らができる限り、意志する限り、あるいはするかもしれない限り、長期的にであれ短期的にであれ互いに愛し合う権利を認め、擁護する。彼らにとって、法律婚と法的な離婚は等しく不条理なことである。彼らは待ち望むのだ――男であれ女であれ、すべての個人が自立し、一つの家であれ共同住宅の一室であれ、それぞれが独立した自分の生活空間〔home〕を持つようになるのを――また、これらの独立した個人間の恋愛関係が、個人の傾向や魅力と同じように多様であるようになるのを――そして、これらの関係から生まれた子供が、自己を所有できる年齢になるまで、専ら母親が所有するようになるのを。
これがアナーキズム的社会理想の主な特徴である。理想を実現するための最良の方法については、理想を掲げる人々の間でも意見が大きく分かれている。ここでは、そのような局面を扱うことは時間的に不可能である。アナーキストと偽って自らを名乗りながら、同時に国家社会主義者と同じくらい専制的なアナーキズム体制を提唱する共産主義者の理想と、アナーキズムはまったく矛盾するものである、という事実に注意を喚起するだけである。そして〔例えば〕、それは、クロポトキン王子らを刑務所に送るパーチントン夫人のほうきによって後退させられたのと同じくらい、クロポトキン王子によって前進させられた理想である――シカゴの殉教者たちが生前にアナーキズムの名の下で行った革命的主体としての暴力や新秩序保護装置としての権威といった不適切な〔unfortunate〕主張よりも、彼らが社会主義という共通の大義のために絞首台の上で栄光の死を遂げたことの方が、よっぽど役に立ったような理想である。アナキストは、目的としても手段としても自由を信じ、それに敵対するいかなるものにも敵対する。
もし私が、アナーキズムの立場から社会主義について、このあまりにも簡潔な説明を要約することを引き受けるべきでなかったとしたら、フランスの優れたジャーナリストであり歴史家であるアーネスト・レシーニュが、一連の歯切れのよいアンチテーゼという形で、すでに私のためにその仕事を成し遂げてくれていたことに気づかなかったからである――この講義の結びとして、この文章を読んでいただくことで、私が与えようとしてきた印象をさらに深めていただければ幸いである。
社会主義には2つある。
ひとつは共産主義的、もうひとつは連帯的である。
一方は独裁的で、もう一方はリバタリアンである。
一方は形而上学的で、もう一方は実際的である。
一方は独断的で、他方は科学的である。
一方は感情的で、他方は深慮的である。
一方は破壊的で、他方は建設的である。
両者とも、万人にとって可能な限り最大の福祉を追求している。
一方は万人の幸福を確立することを目的とし、もう一方は各自がそれぞれのやり方で幸福になれるようにすることを目的とする。
前者は国家を、特別な本質を持つ、特別な権利を持ち、特別な服従を求めることができる、すべての社会の外側かつ上位にある一種の神の権利の産物である、独特な〔sui generis〕社会とみなす。後者は国家を、他の団体と同じように単なる団体であり、一般的に他の団体よりも愚かなことをする団体と見なす。
前者は国家の統治権を宣言し、後者はいかなる統治権も認めない。
一方はすべての独占が国家によって保有されることを望み、他方はすべての独占の廃止を望む。
一方は被支配階級が支配階級になることを望み、他方は階級の消滅を望む。
両者とも、現在の状態は長続きしないと宣言する。
前者は革命を革命の不可欠な担い手と考え、後者は抑圧だけが革命を革命に変えると説く。
前者は天変地異を信じている。
後者は、社会の進歩は個人の自由な努力によってもたらされることを知っている。
両者とも、我々が新たな歴史的局面を迎えていることを理解している。
一方は、プロレタリア以外は存在しないことを望む。
もう一方は、プロレタリアがいなくなることを望む。
前者は、すべての人からすべてを取り上げようとする。
もう一方は、それぞれが自分のものを所有することを望む。
一方は、すべての人を収奪することを望む。
もう一方は、誰もが所有者となることを望む。
前者は「政府の望むようにせよ」と言う。
もう一方は、「あなた自身が望むようにしなさい」と言う。
前者は専制主義を伴って脅かす。
後者は自由を約束する。
前者は市民を国家に従属させる。
後者は国家を市民の被雇用者とする。
一方は、新しい世界の誕生には労苦が必要だと宣言する。
もう一方は、真の進歩は誰にも苦しみを与えないと宣言する。
前者は、社会戦争に自信を持っている。
もう一方は平和の業だけを信じている。
一方は命令し、規制し、立法することを熱望する。
もう一方は、最低限の命令、規制、立法を実現しようとする。
一方は、最も残虐な反作用に導かれるだろう。
もう一方は進歩への無限の地平を開く。
一方は失敗し、他方は成功する。
どちらも平等を望んでいる。
一方は高すぎる頭を下げることによって。
もう一方は、低すぎる頭を上げることによって。
一方は共通のくびきの下に平等を見出す。
もう一方は完全な自由によって平等を確保する。
一方は不寛容であり、他方は寛容である。
一方は怯えさせ、他方は安心させる。
一方はすべての人を指導しようとする。
もう一方は、誰もが自分自身を律することができるようにすることを望む。
前者はすべての人を支えたいと願う。
もう一方は、誰もが自分自身を支えられるようになることを望む。
一方は言う:
土地は国家に。
鉱山は国家に。
道具は国家に。
生産物は国家に。
もうひとつはこう言う:
土地は耕作者に。
鉱山は鉱夫に。
道具は労働者に。
生産物は生産者に。
この2つの社会主義しかない。
ひとつは社会主義の幼年期であり、もうひとつはその青年期である。
一方はすでに過去であり、他方は未来である。
一方は他方に取って代わられる。
今日、私たち一人ひとりは、この2つの社会主義のどちらか一方を選ばなければならない。そうでなければ、社会主義者ではないということを曝け出すことになる。
Liberty 5.16, no. 120 (10 March 1888), pp. 2-3, 6.
筆者後記
前述のエッセイが書かれた40年前には、競争の否定は、現在社会秩序を深刻に脅かしている富の巨大な集中をまだもたらしていなかった。独占政策の逆転によって蓄積の流れを食い止めるには、まだ遅くはなかった。アナーキズム的な救済策はまだ適用可能だった。
今日、その道はそれほど明確ではない。4つの独占は、野放図に、トラストの近代的発展を可能にしてきた。トラストは今や、最も自由な銀行制度が制定されたとしても、それを破壊することができないのではないかと私が危惧する怪物である。スタンダード・オイル・グループがわずか5千万ドルしか支配していなかった時代には、自由競争制度は絶望的なまでにこれを機能不全に陥れただろう――貨幣独占がその〔支配の〕維持と成長には必要だったのだ。しかし現在では、直接・間接に、おそらく1億ドルを支配しており、資金独占は確かに便利ではあるが、もはや必要なものではない。それなしでもやっていける。銀行業務に対する規制がすべて撤廃されれば、集中した資本は、あらゆる競争相手をこの分野から排除するような金額を、犠牲のために毎年積み立てることによって、新しい状況にうまく対応することができるだろう。
もしそうだとすれば、独占は、経済的な力によってのみ永続的に制御することができるが、当分の間、彼らの手の届かないところに過ぎ去り、政治的または革命的な力によってのみ、しばらくの間、取り組まなければならない。国家を通じて、あるいは国家に反抗して、強制的な没収の措置が、独占が生み出した集中を廃絶するまで、アナーキズムが提案し、前述のページで概説した経済的解決策(それ以外に解決策はない)は、偉大な平準化の後に、その適用に有利な条件が整うように、新進世代に教えるべきものとして残るだろう。しかし、学習とは時間がかかるものであり、あまり急いではならない。国家社会主義や革命の宣伝に加わることで、それを早めようとするアナーキストは、実に悲しい間違いを犯す。彼らは、出来事の進行を強引に押し進める手助けをするので、人民は、自分たちの悩みが競争の排除によるものであったことを、自分たちの経験の学習を通じて知る時間がなくなる。この教訓が一時に学ばれなければ、過去は将来も繰り返されることになる。その場合、私たちは、慰めを求めて、ニーチェの教義〔the doctrine of Nietzsche that this is bound to happen anyhow〕、あるいはルナンの考察――シリウスの地点に立てば、全ての問題はちっぽけなものだ――に、転向〔turn〕しなければならないだろう。
B.R.T., August 11, 1926.