高校完全無償化に対する批判

 大阪維新の会は、高校の授業料完全無償化(以下、本制度案)を進めようとしている。大阪府の発表によれば、この制度の目的は「自らの可能性を追求できる社会の実現と子育て世帯の教育費負担を軽減し、子育てしやすいまち・大阪の実現」である。そのための手段として、所得や世帯人数に制限のない、完全な無償化が行われる。大阪府は、授業料のうち63万円を超える分を私学側が負担する「就学支援推進校」を対象に、国の補助金に追加する形で、補助金を出す。令和5年度〜7年度は経過措置が実施され、8年度から完全無償化が始まる。

 もちろん、リバタリアンは本制度案に賛同できない。このような政策は、教育の質の低下を招くだけでなく、教育費を膨張させるだろう。むしろ我々リバタリアンは、公立学校の全廃、義務教育の廃止を望む。

無償化という幻想

 まず初めに、当然ながら、真に「無料」のサービスなど存在しない、ということを理解する必要がある。というのも、高校完全無償化の財源は税金であり、結局のところ、誰かがその費用を負担しているからだ。従って、「無償化」と呼ぶのは誤りであり、「税負担化」と呼ぶのが適切である。ロバート・A・ハインラインの小説、『月は無慈悲な夜の女王』でも言われているように、「無料の昼食は存在しない(There ain’t no such things as a free lunch.)」のだ。むしろ、無料どころか、高い代償を支払うことになるだろう。

教育の質の低下

 本制度が導入されると、消費者(子供や養育者)は、教育サービスの質の低下によって、高校完全無償化のコストを支払わなければならない。本制度案で注目すべきなのは、「キャップ制」と呼ばれる仕組み――価格統制――が前提されていることである。これは、府の予算、補助金に限度があることによる。大阪府は、授業料のうち63万円を補助する一方で、支出を抑えるために、それを超える部分の負担を私学側に押し付ける。こうした府の介入に対して、私立高校はいくつかの方法で対処し得る。

 私学は、人件費、施設・設備費などの削減によるコストカットを行うかもしれない。教員の人員は削減され、より少数の教師が、より多くの生徒を教育することになる。教師の負担は重くなり、生徒一人ひとりに費やすことができる時間は減少する。または、教員の給料は低く抑えられ、教育へのモチベーションが低下する。教員志望者は減り、現役の教師を他の市場、つまり塾や他府県、あるいは全く別の業界へ流出させる。教育施設への投資、維持費は削減され、部活やデジタル教育に力を入れるなどの特色は失われる。価格統制は、企業のよりよいサービスの提供を禁止する。

 市場で評価されるよりも低い最大価格の設定は、供給不足を生じさせる。これは経済学の一般的な理解である。この原因は、最大価格の設定がサービス供給のインセンティブを歪めることによる。例えば、授業料収入の減少によって、教育サービスに不可欠な要素、つまり教員の人件費あるいは、教員の数が減る。優秀な教師は、塾などのより支払いの良い業界に転職するかもしれない。学校は、十分な人件費が支払えず教員不足になるかもしれない。限界的な学校は、収入確保が困難になって事業をやめるかもしれない。学校の数は減少し、子供たちの選択肢は狭まるだろう。価格統制によって、教育サービスの生産要素や労働力は、より消費者を満足させる他の方面へと移っていく。

 ところで、供給量が小さい市場では、利用可能な供給を受け取る人間の選抜に影響が出る、と指摘することができる。私学において、それはコネだったり、親の資産、家柄、知名度だったりするかもしれない。というのも、今よりも資金獲得に必死になる私学が寄付金を多く支払える親の子を好むようになる、と考えられるから。また、親がその学校の出身だった場合、子は選抜で有利になるかもしれない。世代的な帰属意識を生み出すことで、より多くの寄付金を期待できるから。有名人や、その子を学校に入れることは、ある種の広告効果を持つかもしれない。もっとも、自由市場において私学が自発的にそうするのであれば、リバタリアンは反対しない。学校がどのような生徒を選好するかは各学校の自由だから。しかし、自由を重視するリバタリアンは、政府が各学校に介入することに反対する。あるいは、授業料を補助金以下の価格に抑えることに成功した学校は、超過分の利益、より多くの生徒を集めようとし、生徒を全く選抜しないかもしれない。学校は、生徒を見て運営されるのではなく、親の資産や補助金を目指して運営されるようになるかもしれない。

 府の目的は最初に紹介した通りだが、その意図に反して、教育サービスの質が低下し、教育サービスの供給が少なくなる。さらに、各人の努力の成果が、その親の力や補助金に左右されるようになる。このような「政府の失敗」は止まることはなく、妥協的な修正を続け、以下のような事態を引き起こすだろう。

教育費の高騰

 教育の質の低下や、廃校を免れるために、私学はどこかから収入を得なければならない。例えば、私学は教育の質を維持するために、授業料以外の項目、つまり入学金や制服代などにより収入を確保するかもしれない。100万円の授業料で運営していた高校があったとしよう。この高校は、111万円{(100−63)万円×3年}を入学金や諸経費に上乗せするか、外部に委託することで、従来の収入を維持することが出来る。そうなると、消費者は、高額な入学金や教科書代を負担しなければならなくなる。一度に多くの資金を用意できる富裕層はより有利になるし、貧困層は高額な初期費用のためにローンを組むようになるかもしれない。「授業料」が無料になっても「教育費」が無料になるわけではない。

 学校教育の質が低下することによって、代替的サービスの需要が高まるだろう。人材流出に関連して、塾に優秀な講師が集まって高いサービスを提供するようになり、人々は塾に通うことをより望むかもしれない。仮にそうなるとすれば、消費者は追加の費用を支払うことになる。

 あるいは、府がこのような事態に対処するために――この可能性がもっとも高いのだが――新たな補助金を投入するかもしれない。サービスは必要経費を下回って供給することができないから、高い水準の教育のためには、補助金が不可欠である。しかし、リバタリアンが散々指摘するように、補助金はさまざまな問題を引き起こす。政府は情報収集能力に欠けているため、適切に補助金を分配し得ない。補助金の用途は限定され、非効率な資金投入をしなければならなくなり、資源の誤分配を生じさせる。自集団の利益の増大を目指す私学は、補助金の確保に躍起になり、補助金は増大する――実際、大阪維新は60万円から63万円まで補助費を増額した。消費者に選択されることによって収入を得る市場と異なり、政治的に分配される「公金」は消費者のニーズを満たそうとする企業努力を低減させる。税消費者の利益は、納税者の負担が増大するほど大きくなる関係にあるため、税負担はますます増大する。無料どころか、より多くを支払うことになるのだ。

政治介入

 しかも、補助金は、教育内容への政治介入を強めることになる。というのも、府の意向に従わなければ補助金を獲得できない可能性があるから。ちょうど、テレビ番組がスポンサーの意向に反する報道ができないのと同様に。例えば、政府は補助金を人質に、必要な科目や不要な科目を設定したり、教員数を削減するための「効率的な」授業のためのシステムを導入するように圧力をかけるかもしれない。高校では一般的に、性教育や歴史問題に関する自由度は私学の方が大きいが、府は、補助金を盾にこれらに介入することができるようになる。自由な教育は存在しなくなり、官僚的な教育が蔓延する。実際、政府は既に、大学にさまざまな介入をしている――もちろん補助金を人質にして。そのせいで大学生は、無駄な課題、授業に時間を取られ、本来すべき学業に時間を割けなくなってしまっている。そもそも、今回の助成金を受け取るためには、本制度に参加し、授業料の上限(63万円)を府に委ねなければならない――これはすでに政治介入である。ますます府に都合がよく、学生のニーズに合わない教育が提供されるだろう。

教育投資論の誤り

 ところで、教育に「公金」を投入することが「投資」だと言われることがある。彼らによれば、教育は個人の将来収入の増加が期待でき、社会全体が将来的に利益を受けるという。教育によって国民の能力が向上し、国民経済を発展させ、税収を増やすという。しかし、このような経済観は誤りである。

 教育への「公金」投入は消費であり――いや、政府による投資は存在せず、全て消費である。というのは、課税という暴力的な手段によって、自由市場であれば各人が得たはずの満足を排除し、代わりにより低い満足を強制するからである。仮に、その金が税金として徴収されず、各人に自由に使われたなら、それは各人の満足を最もよく満たす。例えば、Aさんは金を教育に費やす代わりに、その一部あるいは全部を、別の消費財や資本(PCや仕事道具など)、証券の購入に充てたかもしれない。その場合、消費財か資本の生産者が利益を得たはずだし、AさんはPCによって最大の満足を得るか、仕事道具によって生産効率を上げたかもしれない。ある企業は投資によって資本を増やし、より多くの製品を生産したかもしれない。各人は、Aさんや生産者、企業は、その利益からまた次の消費か貯蓄、投資をし、その効果は次々と市場に影響を及ぼしていく。これは、各人が時間をどのように費やすかについても同様のことが言える。Aさんは、全く興味のない分野の勉強をする代わりに、スポーツや芸術、ビジネス、家族や友人との時間に使ったかもしれない。Aさんは、GDPや国民経済のような実態のない数字ではなく、実際の満足を得る。自らリスクを負い、財や時間を投資する。

 「だがしかし、政府は各人のより良い支出の仕方を知っている。政府は、短期的利益しか考えられない人々を監督し、彼らの人生や経済活動を計画しなくてはならない。」否。彼の人生は彼のものであり、彼の目的は彼自身が決める事柄である。そして、政府がそのような能力を持つと考えるのは間違っている。少数の官僚が策定した計画よりも、個々の消費者や企業家、投資家が瞬間ごとに選択した決定の方が優れている。他人の金を使う政府よりリスクを負う個人は、より良い投資のためのインセンティブを持つ。数年に一度の選挙で決まる与党の計画よりも、個々人の柔軟で、試行錯誤が多く行われる資産の運用は優れている。例えば、プログラミングを学生に一律で教えるのは馬鹿げている。その授業にかかるコストとリターンは計算不可能だが、全員が全員プログラマーになるわけでもなければ、プログラマーと関わる仕事をするわけではない。教育費や子供たちの貴重な時間が失われ、社会に損失をもたらす――フレデリック・バスティア Frédéric Bastiat が『見えるものと見えないもの』で提示した、「割れ窓の寓話」を思い浮かべた人がいるかもしれない。そもそも、他人から強制的に徴収した金を投資に回すことが、どうして正当化されようか?

公立学校・義務教育の廃止

 リバタリアンは公立学校の廃止を主張する。公立校は必然的に税金によって運営され、政府が課税という手段を通じて自己所有権を侵害するからだ。

 リバタリアンは義務教育の廃止を主張する。なぜなら、教育を受けるか否かは個人の自由であり、それを義務化される謂れはないから。学校教育を受けたい子、あるいは受けさせたい親が学校を利用すればいいのであって、塾やホームスクーリング、家庭教師を利用するなり、あるいは全く勉強せず遊ぶなり、労働することも個人の自由である。そもそも、人間は生きている限り、学習をすることが不可避である。我々は、この世界や環境を通じて、事物を記憶し、過去を反省し、法則を学習していく。例えば、学校でなくとも人々は、歩くこと、手を離せば物が落ちること、他人の悪口を言えば自らの評価を下げるようになること等々を学習している。学校教育のみが学習の場ではない。

 学校の授業は、子供たちにとって退屈であり、役に立つことを教えていない。これは、学校教育が、官僚的な教育指導要綱や集団型授業、教員免許、等々によって制限されていることによる。学校教育は子供たちを規格化し、個性を抑圧する。各個人は、異なる興味関心や能力などを持っている。例えば、ある子供は、3Dゲームに興味関心があり、数学やプログラミング、美術、演劇に関心を示すかもしれない。同じ分野に興味がある子供でも、ゆっくりと学習する方が身につく子もいれば、早いペースで学習したい子もいるだろう。各人に適切な学習のタイミングがあり、強制されて嫌々ながら勉強するよりも、意欲が高い時期に自発的に学習する方が優れているだろう。

 一方で、市場は、興味深く有益な学習機会を提供する。最も明らかな例は塾である。多くの大学受験生は塾に通っている。各塾自慢の塾講師が集められ、環境の整った自習室が夜遅くまで開いている。そのほかにも、あらゆる生産物――本、ニュース、映像作品、ゲーム、商品――や自然、自発的なコミュニティが学習の機会を提供しうる。

 批判者の中には「学校で集団生活を学ぶことができる」として、義務教育を賞賛する人がいる。しかしながら、学校は、同年代の子供や、教師しかいない特殊な空間であって、現実の社会生活を学ぶ場として不適切ではないだろうか?そこは、規律・矯正の原理が支配する、むしろ監獄のような場である。子供は外界から切り離され、視野が狭くなり、一方的な教育を受ける――これは洗脳のプロセスに似ている。市場では、家族、親戚、職場、組織、何かしらのコミュニティに所属する場合がほとんどである。市場は協働的で交換的な場であり、社会性を身につけるのに優れている。義務教育こそが、子供の社会性・主体性の成長を遅らせているのではないだろうか?

 バウチャー制度の導入を主張する人もいる。バウチャー制度とは、政府が教育費に用途を限定したクーポンを各個人に配布することで、各個人が自由に学校を選択でき、各学校がクーポン獲得のために競争をすることを狙いとした制度である。しかし、課税は自己所有権を侵害する。さらに、政府がバウチャー制度に参加するための要件を設定することで教育に介入するという、重大な危険性がある。

 学歴社会は企業の採用コストを低くすると考えられており、これを不可欠だとみなす人もいる。しかし、これは政府の介入に対する市場の反応に過ぎない。政府が過剰に教育サービスへの消費を促す結果、学歴社会が形成され、企業と労働者のマッチングが歪められている。自由市場において、採用コストは民間資格や職歴によって低く抑えられるだろう。例えば、「〇〇大学卒」という肩書きよりも、TOEFLやTOEICのスコアの方が、英語力を示すのに役に立つ。市場は、教育サービスを適切に配分し、労働に必要な人材を十分に供給するだろう。現行制度のような学歴制度は破綻するだろう。

 リバタリアンの目的は自由であり、手段において廃止主義を採る。公立学校・義務教育は全て廃止されるべきであり、市場に委ねられるべきである。

最後に

 中には「将来世代のためになら税金を負担しても構わない」という、利他精神に溢れた人もいるかもしれない。しかし、低所得ゆえに子供を持つ希望を絶たれた人々から集めた税金を、高所得で教育熱心な家庭へ分配することは、どのように正当化されるのだろうか?

 政治家は、自らの政策を推進する際、「将来世代のために!」などの建前を用いて、大衆の美的感覚に訴えかける。しかし、その目的は常に、当選や特定の人々への利益誘導といった、自己利益の拡大ではなかっただろうか?

 「学校教育は社会問題のゴミ箱」だと言われる。「社会」で何か「問題」が起こると、人々は、学校教育に原因を求め、更なる「公金」投入を求める。しかし、それはまるで、ギャンブル依存症が「もうちょっと軍資金があれば勝てるのに…!」と言うのと似てはいないか?

 大阪維新が新自由主義だとか、リバタリアンだといった間違った意見が蔓延している。しかし、高校無償化や、大阪万博、補助金、国歌斉唱事件、どこを探してもリバタリアン的要素は無く、むしろ国家社会主義政党と言われた方がしっくりこないか?
(中条やばみ)

参考

(1)大阪維新の高校無償化政策については以下を参照した。

大阪府HP「令和6年度以降の私立高校等授業料無償化制度の改正(案)について」https://www.pref.osaka.lg.jp/shigaku/shigakumushouka/mushoka_r6.html、2023/09/25確認。

大阪府HP「令和6年度新制度概要」https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/11430/00459356/r6_mushoka_all.pdf、2023/09/25確認。

(2)高校無償化制度に関する報道も参照したので、一応挙げておく。

FNNプライムオンライン「吉村知事が公約に掲げた所得制限なき高校授業料の“完全”無償化 現行制度の課題【大阪発】」https://www.fnn.jp/articles/-/584884、2023/09/25確認。

YHOO!ニュース(ABCニュース)「大阪府“高校授業料の完全無償化”で思わぬ落とし穴も? 現場からは『教育の質の低下を招く』懸念の声」https://news.yahoo.co.jp/articles/e67db0b7b8b7821406cf7b89d17a8121716cc1fb、2023/09/25確認。