リバタリアニズム解説シリーズ(2):リバタリアニズムとは?

*本記事は「リバタリアン協会(LS)」のnoteにて[2022年1月19日 18:07]に公開されたものです。

こんにちは。

前回は、リバタリアニズムには様々な立場があるということを示しました。そして、今回はリバタリアニズムが主張する内容そのものについて紹介します。
ただし、どちらかと言えば、右派リバタリアンにとってのリバタリアニズム観の紹介になります。

目次

  1. リバタリアニズムって何?
  2. 自己所有権
  3. 非侵害原則
  4. 消極的自由
  5. おわりに
  6. 参考文献

リバタリアニズムって何?

リバタリアニズム研究者(哲学者)の Jason Brennan はリバタリアニズムについて、以下のように述べています。

リバタリアニズムとは、政治思想の一種である。リバタリアンは個人の自由の尊重が正義の中心的要件だと信じている。彼ら/彼女らは、人間関係が双方の同意に基づくべきだと信じている。リバタリアンは、協調、寛容、そして、相互の尊重のための自由な社会を唱導する (Brennan 2012: 1) 。
※訳は前川による。

また、日本のリバタリアニズム研究の第一人者であり法哲学者の森村進はリバタリアニズムについて、

おそらく一番わかりやすいリバタリアニズムの説明は、諸個人の経済的自由と財産権も、精神的・政治的自由も、ともに最大限尊重する思想というものだろう (森村 2001: 14) 。

と述べています。

両者のコメントからも分かる通り、リバタリアニズムは自由をまず第一に尊重します。そして、その自由は、経済的自由(経済活動、ご近所さんとの付き合い等)と精神的自由(思想の自由、表現の自由と一般的に理解される自由)を意味しています。
具体的な政策だと、新規参入を認める規制緩和や、思想を理由に拘束・暴行を受けないことが挙げられるでしょう。

ただ、これだけだと、「それは自由主義と呼ばれる考え方と同じでは?」と疑問に思うことでしょう。
実際、リバタリアニズム(特に右派リバタリアニズム)内には、古典的自由主義と呼ばれる、政府の存在は認めるが、その役割については制限をかける一派もあります。
これは、自由主義 liberalism という言葉と概念が社会民主主義的なリベラル liberal へと変容していったため、古典的自由主義者は区別のために「古典的 classical 」を冠するに至ったようです(cf. Brennan 2012: 9)。
この一連の右派リバタリアニズム内の諸思想については次回以降に紹介します。

ともかく、通常用いられる「リベラル」とリバタリアンが違うことを示すための最良のツールは、政治的スペクトルの一種であるノーラン・チャートでしょう。
このチャートは、アメリカのリバタリアンであるデイヴィッド・ノーランが発明したものです。詳しくは、ウィキペディアのページnolanchart.comをどうぞ。
リバタリアニズムを説明するときに非常に便利なので、今後も参照するかと思います。

画像1

https://en.wikipedia.org/wiki/Nolan_Chart より、ノーラン・チャートの図。

ノーラン・チャートは、経済的自由と精神的自由の2軸から成るチャートです。
このチャートでは、経済的自由と精神的自由の2つを重視するのがリバタリアンで、経済的自由は重視するが精神的自由を軽視するのが保守、経済的自由を軽視するが精神的自由を重視するのがリベラル、両方軽視するのが権威主義者ということになります。

通常、政治は「リベラル対保守」という二項対立として理解されがちですが、リバタリアンはその枠組にすら批判的です。そして、それは「我こそが自由を最大限尊重している」というアピールでもあります。

…話を戻すと、リバタリアンは「リベラルは経済的には自由ではない」と理解します。具体的には、政府による再分配・公共事業・課税・規制等が挙げられます。リバタリアンにとって、それらは個人の同意なしに行われ、また、同意なしに個人の行為を制限するため、自由ではないと考えるのです。
通常、政府の専横に対しては、憲法やデモクラシー(政治参加)によって緩和しようと様々な人は試みますが、リバタリアンの色合いが強まれば強まるほど(無政府資本主義や最小国家主義など。解説は次回以降。)それらに対する信用も低いです。

当然、精神的自由についても同じで、例えば、麻薬・性交渉・表現(イラスト・扮装等)の自由を尊重し、現状違法であるものに対しては合法化を試みます。

この2つの自由は、(右派)リバタリアンにとって一体不可分で、どちらか一方を軽視してよい理由はないと考えがちです。
また、右派リバタリアンや古典的自由主義者は、これら自由と財産権を結びつけることもしばしばです。

そういった事情もあって、リバタリアンは政府に対して酷く懐疑的です。まぁ、もともとアナキズムが発端(前回の記事を参照)なので、当然といえば当然ですが。

さて、大体の傾向は理解していただいたと思いますので、以降はリバタリアンがよく用いる考え方を紹介します。

自己所有権

リバタリアンが好んで用いる概念があります。自己所有権です。
平たく言えば「私の身体は私のものである(他人が私の意思に反して、私の身体にあれこれするな!)」です。
おそらくですが、(自覚的な)リバタリアンでない人にとっても受け入れやすい考え方かと思います。

さて、ここで、左派と右派の対立が始まります。
一般的に右派リバタリアンは上記の自己所有権(身体所有権、狭義の自己所有権とも)から進んで、「私の労働の成果物は私のものだ(私的所有権、広義の自己所有権とも)」と考え、財産権と自己所有権を強く結びつけがちです。
一方で左派リバタリアンは、自分の身体ではない資源(土地、鉱物、生物等)を直接自己所有権と結びつけることに抵抗します。
右派リバタリアンの目線からは、財産権(経済的自由)なしに自由なし、として左派リバタリアンはリバタリアンではない(cf. 森村 2001: 30-32)とする風潮もあります。
泥沼の様相ですが、ともかく、身体の所有権については合意があると言えるでしょう。

非侵害原則

次にリバタリアンが用いる概念は非侵害原則です。

自己所有権を前提とした場合、当然、相手に対して侵害(相手の同意なしに強制・危害を働くことと理解されやすい)を働くことは不正です。
自己所有権もそうですが、リバタリアンはこの非侵害原則も普遍的に適用します。つまり、「誰も侵害するべからず」です。
強制を酷く嫌うのもリバタリアンの特徴です。

ただし、実際に何が危害にあたるのかについては哲学上の難問です。
例えば、何が有害物質か、有害物質がどの程度大気中に放散すれば不正なのか、そしてそれは現実に行為可能なのか(制度として実行可能か)といったことは、しばしば批判の対象になります。
これに近く、また、リバタリアニズム関係の論文では、 Matt Zwolinski (2015) ” Libertarianism and Pollution, ” Prepared for Benjamin Hale and Andrew Light, eds., The Routledge Companion to
Environmental Ethics. 
等があります。
また、同意なしに相手をぶん殴る、刺し殺す等の直接的な行為については理解しやすいですが、暴言・悪口は「他人の意思は所有できない」として退けることもしばしばです。このことは多くの人の直観に反するのかもしれません。その代わり、対抗的に風評をバラ撒くのも勝手ということになりますが…。

難問も含みますが、基本的には、同意なしに相手を殴っちゃダメ、とか、他人のモノは盗っちゃいけません、という常識的な原則でもあります。

消極的自由

リバタリアンの言う自由について、概ね理解していただけたかもしれません。
この自由は、通常、消極的自由と呼ばれるもので、平たく言えば「他人からの強制がないこと」を指します。

それだけ?と思うかもしれませんが、これは普遍的な要請であって、消極的自由の下で何をするかは(他人を侵害しない限り)それぞれ好きにすればよいという主張に繋がります。
なので、実際には、リバタリアニズム社会の中には、マルクス主義コミュニティがあったり、ロールズ的コミュニティがあったりするのかもしれません。逆はおそらく無理です。
当然、孤独に生きるもよし、他人と協働するもよしです。リバタリアニズムがアトミズム的だと誤解されやすいですが、基本的には、他人との協働は(経済的にも道徳的にも)善いことであると判断するリバタリアンもいます。というよりも、暴力に頼らずわざわざ言論上で正義観を提唱するのですから、他人との協働を念頭に置いていることは確かでしょう。
しかし、そのような協働を普遍的な正義に盛り込みませんが。

おわりに

簡単ですが、以上が(右派)リバタリアニズムのベースとなる考え方です。

勘が鋭い方もおられるかと思いますが、右派リバタリアニズムと左派リバタリアニズム、さらにリバタリアン社会主義では根本的な部分で大きな差異があるように感じられるかもしれません。
前述の通り、右派リバタリアンの中には左派リバタリアニズム(+リバタリアン社会主義)をリバタリアニズムと認めない風潮は確かにありますし、直観的で申し訳ないですが、リバタリアン社会主義者に関しては「リバタリアニズム」の語を用いていない感があります。

リバタリアニズムは「リバタリアン資本主義」のことなのか、それとも、左派リバタリアニズムやリバタリアン社会主義が異質なのか。今後も考えを張り巡らしたいと思います。

次回は(おそらく)右派リバタリアニズムの分類になります。

では、またお会いしましょう。ありがとうございました。

(文:前川範行)

参考文献

森村進(2001)『自由はどこまで可能か』講談社。
Brennan, Jason (2012) Libertarianism: What Everyone Needs to Know, New York, Oxford University Press.