解説:コンキンとのインタビュー

 「コンキンとのインタビュー Interview with Konkin 」は、文字通りサミュエル・エドワード・コンキン3世とのインタビューであるが、リバタリアン思想において重要な価値がある。

 「コンキンとのインタビュー」は、コンキンを相手に、_wlo:dek と michal がインタビュアーを務める。この_wlo:dek と michal なる人物、今のところ、どのような人々なのか知るに至っていない。皆様の情報提供をお待ちする次第である。インタビューは、ダニエル・バートン Daniel Burton によれば、2002年に行われたようだ。コンキンは2004年に56歳で亡くなるから、インタビュー時は54歳だ。マレー・ロスバードが1995年に亡くなり、ロバート・ノージックは2002年に亡くなっている。他にも20世紀中にロバート・ルフェーブルやロバート・ハインラインらも亡くなっており、1960年代から顕著になるリバタリアン運動に従事した活動家たちがこの世から消え去り、その記憶も消し去られることに危惧があったのではないだろうか。リバタリアニズムの話ではないが、日本では近年、学生運動期に従事した活動家たちによる回顧録が流行りである。「懐古趣味」とか「時代錯誤」であると非難する人もいるだろうが、記憶を記録にする意義は大変大きい。現場で活動する人間であればともかく、現場から切り離された大多数の人々(将来生まれる人を含む)にとって参考できる資料は文字と映像ぐらいのものだからだ。

 さて、「コンキンとのインタビュー」の構成は、まずインタビュアーによるコンキンの紹介から始まる。ここで重要なことは、①(アメリカの)リバタリアン運動は1969年から始まっていること、②コンキンにリバタリアン党員の経歴があることだろう。通常、1960年代の学生運動や反戦運動は1968年から始まる。しかし、(アメリカの)リバタリアンにとっては、1969年の共和党セントルイス大会こそがその狼煙である。日本でも、日本共産党から日本トロッキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟、中核派・革マル派)が生まれたように、既成政党の拒絶と新組織の確立がリバタリアンにもあったのだ。次に、コンキンにリバタリアン党員の経歴があること、つまり大文字のLの経歴があることについてだが、これは後年のコンキンを知る者からは意外なことに思われるかもしれない。というのも、コンキンは後に記す『新リバタリアン宣言 New Libertarian Manifesto 』にて、明確に政党の存在とその支配を否定しているからだ。しかも、幹部会議に出席し、代議員として党員の信任を得ている。とはいえ、後の反・政党政的性向が自由リバタリアン党の大会でボイコットを敢行していることから、既に反・政党政の構想があったのだろう。余談だが、(コンキン曰く)ロスバードは中央集権主義的であり、コンキンは分権的だが、これは、レーニンのような党組織の確立を目指す者と、(レーニンの云うところの)経済主義者の対立そのものである。

 インタビュアーの前書き後、本編が始まるが、「インタビュー」は、①必要不可欠な背景、②歴史から理論へ、③理論から実践へ、に分かれている。「必要不可欠な背景」は、まずリバタリアンの定義から始まる。ここでコンキンはリバタリアンを、ミナキストを含む「自由市場アナキスト」の別用語と定義している。基本的には、現代でいうところソフト・リバタリアンを、リバタリアンを認めてないと考えられる。その後の決定論に対する自由意志論との説明と、19世紀のアナキスト(本編では明示されていないがジョゼフ・デジャックらのこと)の婉曲語と紹介している点、1940年代以後にアメリカで反ニューディール的な性格を帯びて復活した点は我が協会が常々唱道している通りである。リバタリアン思想史にとって興味深い点は、ロスバードが新左翼に接近したこと、そして、ウィリアム・バックレーが保守主義者を結集させたことだろう。ロスバードは反国家主義的考慮から、右傾化していた――バックレーの影響力が高まっていた――共和党から離れ、民主党左派や新左翼と接近したのだ。新左翼との提携解消後も、ロスバードは保守主義者の大資本家贔屓な点と国家主義的な点を指摘している(ロスバード2016: 338)。「ロックフェラーや他の好ましい多数の大実業家をリバタリアンや自由放任主義の見方にさえ転向させることを期待するのは、無駄で無意味な望みである(ロスバード2016: 338)。」なお、後にロスバードはバックレーらとは異なる保守勢力であるパレオ・コンサバティヴと同盟を結成するに至っている。アメリカのリバタリアンが半世紀をかけて右傾化した事実を見逃してはならないが、紙面の都合上、本稿では一旦区切ることとする。

 次に、リバタリアンと組織の話題だが、ロスバードとヘスの努力によって、新左翼団体であるSDS(民主社会のための学生運動)と右派系団体のYAF(自由のための青年アメリカ人)がリバタリアンを介して緩やかな協力関係に入ったことが述べられている。両団体の会議後、アメリカ中でリバタリアンの集団がつくられ、(非議会政治的な)20世紀のリバタリアン運動は最大限の盛り上がりを見せる。

 リバタリアン党の設立と議会主義的政治運動の話題の後に、一往復のやり取りだがリバタリアン運動にとって重要な話題として、リバタリアンが(彼の提唱するアゴリズムに基づいた)地下経済活動を志向すべきだということと、公的な議論が存続可能なのは国家に目を付けられない間だけということだ。リバタリアン社会(アゴリスト社会)へ至る過程に、国家との衝突は避けられず、当然にリバタリアン・アゴリストは監視・干渉対象となる。その際に、コンキンは経済基盤と議論の場を国家の目の届かないところに置こうと示唆している。これは私的な意見であり、アゴリズムに対する懸念だが、アゴリズムは国家の暴力に対してどのように対応するのか。コンキンは『新リバタリアン宣言』にて、アゴリスト社会への移行論を説いているが、その要旨はカウンター・エコノミクスによって、つまり国家を回避する経済活動によって国家を財政的に破滅させることだ。しかし、この一連の移行期に、国家が呑気にその死滅を待ち続けるはずがない。国家はアゴリストを弾圧する。その際、アゴリストは国家の暴力に対してどのように対応するのか。経済活動の活発化によって兵器・兵士のアドバンテージを得るのだろうか?ともかく、国家への対抗は、歴史的にも(国家主義者の)利害的にも国家との暴力的対峙であることは明瞭だから、避けられない問題である。

 次はコンキンがリバタリアンになった経緯だが、これは案外想定内の範疇なので省略する。

 最後に、ロン・ポールについての議論だが、興味深いのは、ポールが孤立しすぎている件についてだろう。議会政治では党派間の妥協は避けられないものである。時には、ドイツ社会民主党のように、社会主義者を弾圧することにすらなりかねない。コンキンの政党政批判はまさにそのような観点に対して強烈な意義があるのだが、そのコンキンをもってして、ポールは孤立し過ぎだと言うのだ。二大政党制のアメリカでは独立した第三政党は無力そのものなので、これでは議会政治戦略の「良さ」もないということなのだろう。

歴史から理論へ

 第二の「章」である「歴史から理論へ」では、まず、セントルイス大会とその前後の時代背景の説明から始まる。YAFを牛耳る伝統派にリバタリアン(とその他右派勢力)は追いやられてしまう。その後コンキンは自由リバタリアン党内で急進派として中央集権体制に反発するも、結局、党を去ることになる。

 ミルトン・フリードマンとのやり取りはリバタリアン思想史にとって重要なものである。通常、ミルトン・フリードマンは(息子のデイヴィッドほどではないにせよ)多くの人が「リバタリアンである」と判断する人物である。しかし、コンキンとミルトンのやり取りは、そのようなステレオタイプを一掃させてしまう。なんと、コンキンによれば、ミルトンが第二次大戦の戦費調達のために所得税の源泉徴収に関与したというのだ。もしこれが事実であれば、リバタリアンに対する深刻な裏切りである。ただでさえ、リバタリアンは反戦志向が強い上に、課税を強化するような制度には反対なのだから、戦争協力と源泉徴収を確立するミルトンは立派な国家主義者である。付け加えると、コンキン曰く、シカゴ学派や新古典学派は国家の手先なのだ。

 ロスバードの人格の話題では、大方の偏見と異なり、ロスバードは穏健な人物だと評している。そもそもなぜロスバードが粗暴で乱雑な人物だと思われているのか。彼は多くのリバタリアンや周辺思想の運動に関与しており、まず縁がないであろう人々とも交流を試みる人であった。アイン・ランド、チャールズ・コーク、エド・クレーンらのような良くも悪くも一癖ある人々ともひとまず交流を試みるのだが、彼ら/彼女らの強烈な人間性と思想の不一致を前に、破綻に至ったのだろう。また、ロスバードは「相手の言葉」で語る人でもあった。運動論では積極的に左翼活動家から概念と言葉を拝借し、経済・倫理研究では、アカデミズムの人々に対話可能な言葉を採用している。一個人の卓越や金銭的利害を超えた、社会性を伴う説得を重視する人だったと推測することは、おかしなことではないだろう。

 ロスバードの運動史は20世紀アメリカのリバタリアン運動史そのものである。ロスバードはまずオールド・ライト的な右翼から始まり、新左翼・アナキストに接近し、アナキストがSDSから追放された後にリバタリアン党に参与し、さらにその後党を抜け、パレオ同盟を構築したのだ。アメリカのリバタリアンのルーツは、19世紀のライサンダー・スプーナーやベンジャミン・タッカーらのリバタリアン社会主義にもあるが、オールド・ライトの存在は無視できない。オールド・ライトの持つ反政府性・反間接民主制・反連邦の権力拡大といった要素は、後のリバタリアンに受け継がれている。上記のような特徴をもって、リバタリアンは(一時的にせよ)新左翼と共闘できたのだ。しかし、新左翼内のパワーバランスの変化とともに共闘関係は解消されてしまう。「リバタリアン」の右傾化・国家主義化はここから始まっていると考えてよい。レーガン政権期になると、ネオリベラリズムが思想を席巻する。一部のリバタリアンはネオリベに回収され、さらに(意識的か、無意識的か)ネオリベが「リバタリアン」を自称することで、無政府資本主義・自由市場無政府主義・最小国家主義的リバタリアン思想と運動は崩壊に至る。「ソフト・リバタリアン」の時代の幕開けである。このような時代にあって、ロスバードは自由社会実現のためにパレオ・コンサバティヴと共闘したのである。概括すれば、20世紀アメリカのリバタリアン運動は、リバタリアン自身というよりも、周辺の思想・集団にかなり左右されたことは明らかである。これは、リバタリアン思想が持つ特徴に由来するのか、外的要因があまりにも強すぎたのか、強固なセクトを確立しなかったからなのかは、現段階では判然としないため今後の課題とする。

理論から実践へ

 左派リバタリアンの運動はほとんど知られていない。というよりも、左派リバタリアン思想そのものが、残念ながら、リバタリアン界隈ですらマイナーである。コンキンの左派リバタリアン運動はそうした状況に示唆を与える。合法期のコンキンの左派リバタリアン運動の特徴として、①ロスバード曰く極左冒険主義・左翼セクト主義であること、②反原子力・反戦、③非合法路線に引き戻す勢力との非和解、④フランスの急進派の影響を受けていること、を挙げている。一見すると、社会主義・共産主義勢力と見間違うだろう。左派リバタリアンは自由市場を擁護するものの、その振る舞いや運動の方向性は左翼そのものである。

 左派リバタリアン/アゴリズムと無政府資本主義の違いとして、アゴリズムは企業家を重視し、非国家主義的資本家を中立的な非イノベーターとし、国家主義的資本家を悪とみなす。コンキンによると、無政府資本主義はイノベーター(企業家)と資本家を区別せずに扱うという。アゴリスト社会は資本家と労働者階級が死滅し、人類の独立企業家へ至ると述べているから(Konkin 1983)、資本家に対する理論的期待はないのだろう。さらなる違いとして、現実政治における方針の相違がある。コンキン曰く、無政府資本主義者は既存政党との関係を信じており、敵対勢力と戦うためならば政府と協力することも厭わない一方で、アゴリストは徹底的に非政治的=非議会政治的だという。

 カウンター・エコノミクスについての解説は別の場で行うため割愛するが、カウンター・エコノミクスとインターネットの関係についてだけ意見を述べよう。近年、ダークウェブが盛んだが、これはまさにカウンター・エコノミクスそのものである。国家を回避した経済活動であるダークウェブは瞬く間に新たな市場を切り開いた。ただ、ひとつ懸念があるとすれば、それは国家からの防衛をどのように成すかである。ダークウェブのひとつである「シルクロード」の創設者ロス・ウルブリヒトは米国当局に逮捕され、シルクロードは閉鎖されてしまった。国家との闘いの中で弾圧は避けられないものだが、アゴリスト企業家にとって弾圧は他の活動家と比べ致命的なものになる。というのも、弾圧下の期間は経済活動が停止する挙句、経済活動に必要な資本・商品が没収されてしまうからである。相当上手く国家を回避しなければ、ブラック・マーケット的アゴリスト企業家は成り立たないと言っていいだろう。

 以上で簡単ではあるが、「コンキンとのインタビュー」の解説とする。

(前川範行)

参考文献

Konkin Ⅲ, Samuel Edward (1983), New Libertarian Manifesto, 2nd ed., Agorism: Revolutionary market anarchism, URL: (最終取得日2021/10/21、9時40分)。

Rothbard, Murray N. (1978), For a New Liberty: The Libertarian Manifesto, 2nd ed., Ludwig von Mises Institute. 岩倉竜也訳(2016)『新しい自由のために』デザインエッグ社。